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家系今より七十年前*、すなわち弘化二年[1845年]五月二十一日をもって 大阪江之子 兼松はその |
掲者注:七十年前=著者は本書初版の年(大正3年、1914年)を起点としている。 江之子島=大阪市西区 |
父は尾張国春日井郡布袋野村*の
広間家の長男に生まれしかど、年、壮なるにおよんで
素行修まらず、父の怒りにふれて勘当せられ、大阪に来たりて、北安治川なる畳表商
吉田某に奉公す。 父はその後、おおいにその品行を慎み、表裏なく、忠勤を励みければ、主人いたくこ れを愛し、まもなく、通勤手代にあげて、江之子島に別家せしめ、自ら媒酌して、山城国伏見帯屋町の齊藤吉右衛門の末女八重をめとらしむ。 これ翁の生母なり。 | 布袋野村=現在:愛知県江南市布袋野町 |
幼にして父に離れる翁生まれていまだ三ヶ月に達せざるに、父は畳表買い占めの嫌疑により、官の偵策急 なりしかば、その身をおくに所なく、ついに家族に告げずして大阪を脱し、その所在をされど、父は商用にて旅路に日を重ねるを常としたなれば、母も最初は深く心に留め ざりしかど、その後、日数を経て、夫の身の危うきを聞き、ここに初めてその さりとて、主なき家に、いつまであるべきにあらざれば、親族とも談合して、家屋その他 の財産を売り払い、自分は嬰児を懐にして、はるばる尾張に赴き、夫の実家に寄食す ることとなりぬ。 祖父および叔父なる人の |
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立志のわか芽ここに発すかくて母帰郷の後は、愛児を将来有為の者とし、一旦衰えたる家道を挽回せしめんも のと、ひたすらその教育に身をゆだねいたりし。しかし、ここに両親および親族の切なる勧告もだしがたく、かつ愛児の将来を思いて、 心ならずも同地の魚商北村某方に再嫁せり。 時に、翁は四歳なりき。 しかるにこの母子の薄倖なる、それより九年の後、継父なるもの病んで鬼籍に入りぬ。 同家は主人在世の間こそ、相当の生計を営みいたれ、別に貯蓄のあるにあらざれば、 主人の死後は営業を継続し得べくもあらず、母は愛児を伴いて再び実家に帰るのや むなきにいたれり。 翁にして尋常の小児ならんには、今や腕白盛りにて、ただ遊楽にのみ浮き身をやつすべからんに、世にも ある日、心ひそかにおもえらく 「我、今年十二歳の少年なるも、いかにもして立身出世をなし、衰えたる家道を興して、 父母の 翁は一日も空しく母の |
1853年(翁、数えで9歳): ペリー提督、浦賀に来航 本文は、翁の年齢を、"数え"で記述してあります。 |