心機一転

目先の利を追うのをやめる

大阪に滞在中、ある日、神戸に所用あり。
ある汽船に便乗して渡海の際、 はからずも船内において、横浜の英語教師たりし 伊藤氏に邂逅(かいこう)*せり。
二人はその奇遇に驚きたるが、同氏は翁の近状を聞きて、(いわ)
「あたら有為の才を抱きながら、各地を転々として、いまだその目的の確立せざるは、 君のために予の大いに、取らざる[=勧めない]ところなり。
もし、君にて、従来の方針を改めて、安全にその身の出世を計らんとならば、幸いに三井組に知人あり、同店に斡旋の労をとるべし」と。
ひたすら、この際、志を改め、三井に入社するの得策なるを 慫慂(しょうよう)*せり。
翁は幾多の艱難をなめ、ようやく自由の身となれるを、今また奉公の束縛を受くるにいたらんこと、もとよりその望むところにあらざりし。
しかりといえども、今や伊藤氏の言を聴きて、心ひそかに期するところあり、翻然としてその勧告に従うことに決心したり。
この船中の奇遇こそ、実に翁の生涯に一変革を与えし動機なると同時に、翁が六十幾年の歴史中、最も重要のものなりき。




邂逅(かいこう)
=思いがけなく、会うこと



慫慂(しょうよう)
=誘い勧めること


伊藤氏から、短期的な目先の利を狙う商売を追うことを諫められる。

三井組に入る

貸勘定主義の実行

かくて、翁は伊藤氏の勧告に従いて、三井組に入るの決心をなしたれば、まず、東京で、 当時三井組の総理たりし三野村利左右衛門氏*[故・三野村利助氏の義父]に紹介され、 さらに銀行部の支配人西村虎四郎氏に面会することとなり、直ちに大阪に引き返して、同氏に面会したり。
翁の経歴は早くも伊藤氏より伝えられしをもって、西村氏は入社後の心得につきて厳重に訓戒する所あり。
翁も大いに心を入れ替えて、忠実に働く決心なる旨を答え、いよいよ等外五等[月給七円]の辞令を受けたり。
時に、明治六年[1873年]三月にして、翁は二十九歳なりき。

明治6年(1873年)3月、29歳
三井組銀行部大阪分店へ、月給7円で入社。 会社組織とそれを使っての実業を習う。


「三野村利左右衛門」は、「三野村利左衛門」と表記することが多い。
翁、ふと思い起こせることあり。
そは、去る年、東京において放浪せる際、知人が翁に (ふう)*したる一言にして、
その意味は、
勤労は常に貸し勘定たるべし。(勤労の貸し勘定主義)
例えば、百円に対して二百円働くべし。
決して雇い人根性をだしてその職を怠るべからず。
人に雇われている時、他日、独立せば一層働くべしとの考えは大いなる僻事(ひがごと)なり。
働くことも習慣なれば、常に貸し勘定の念さえ去らずんば、 その働きの上に親疎の別の起こるべきはずなし、しかるに自己の仕事と他人の仕事とによりて、 その働きぶりを異にするがごときあらんか、その成功は得て望むべからず。
と云うにありて、翁は、三井組に入れば、断じてこの貸し勘定主義を実行すべしと決心したり。
かくて翁は、いよいよ三井銀行部に入りたるが、何分、等外五等出仕の資格なれば、 その仕事はむろん丁稚同様なり。
とにかく、いっときは、紳士紳商の仲間入りをなせし ものなれば、尋常のものならんには、安んじてその職をとることをいさぎよしとせざるべき。
しかれども、労働の多少は報酬の厚薄によるという、いわゆる雇い人根性はもとより翁において見るあたわず。
朝は九時出勤の定めなるに、早くも七時頃に出て、なお、眠り居れる小僧どもを呼び起こし、彼らに対して、 「勤労は貸し勘定たるべし。少年の時において勉強せざれば、他日、悔ゆるの日あるべし」などと、教訓するを常とせり。
しかれども、「房吉、房吉」と呼び捨てにさるる分際にありては、この価値ある教訓もさらに何らの効き目なかりき。
明治7年(1974年)7月、
房治郎30歳
父親、弥兵衛死亡
大阪-神戸間の鉄道開通


(ふう)する
=遠回しに言う


僻事(ひがごと)=心得違い


勤労は貸勘定主義
たるべしは、
兼松のモットー
翁は、すでに(おのれ)を捨てて、貸し勘定に決心したることとて、 いかに房吉と呼び捨てにさるるも、重役の下駄を直すもいささかも意となさじ。
丁稚輩より軽蔑されながら根気よく、やはり二時間早く出勤して、貸し勘定の講釈や、英語、そろばんなどを教えいたり。
最初のうちこそ、丁稚らも翁を軽侮したれ、日を経るにしたがいて、漸次、敬服の念を増しきたり、しぜんに丁稚の風儀も改まりきたりて、 翁の苦心も多少現らわるるにいたりぬ。
かくのごとしにして、翁は常に正直と勤勉とをもって職務に精励し、貸し勘定主義をもって人一倍の働きをなしたり。
その後一度の昇級なきも、さらに(かわ)ることなきのみならず、 日にますますの勤勉の度を加え、早くも三年を経過せり。
明治時代の事務所は、下足厳禁が普通。下駄を脱いで、中に入った。 下足番を必要とし、房治郎は下足番をやっていたことを示す。