乾物問屋の虐待されど、何をいうにもなお十二歳の幼童にして、ようやく東西をわきまえるに過ぎず、ま して親一人子一人の間柄として、母は遠くこれを手放すには忍びず、祖父母にはかり て、さしあたり同じ伏見西浜にて醤油、味噌などを商う当時、翁は朝早く起きて午前中は得意回りをなし、午後は先輩の店員につき、 貧民部落をまわりて、味噌、酒、醤油の小売をなすことを日課としたりき。 しかも、その前途の到底見込なきを悟り、翌年辞して大阪に赴き、薄き縁家なる新天満 町丹波屋延蔵方に奇遇したり。 |
安政3年(1856年) 数えの12歳で、味噌/醤油屋の丁稚に。 |
されど、ここにても思わしからず、いくばくもなく去って京都に赴き、東洞院万壽寺の鮒
屋庄兵衛[通称:鮒庄]となん呼べる乾物問屋に住み込むこととなりぬ。 しかるに、この家の主人なるもの、性苛酷にしてその店員を遇する、すこぶる惨酷なり き。 されど翁のごとき、朝は四隣なお夢暖かなる とかくするうちに、番頭、丁稚 朝食とはいえど、当時、京の町家のこととて、芋がゆをすするがさだめなりき。 翁はもと より丁稚の身分にて、その食事は主人始め番頭などの かくて粥汁の朝食終われば、こんどは湯葉、椎茸、かんぴょう、昆布、高野豆腐などの 注文取りに回ることが、翁ら丁稚の職務にて、予定の得意先を一巡して帰店すれば、 すでに昼時なり。 朝夕二度はほとんど米の洗い汁に等しき粥なれど、昼は温飯なれば、あわれ、当時翁 の第一の楽しみはこの昼飯のみなりき。 昼飯後、また午前と同じく得意先回りをなして 夕べに帰り、夕飯の箸を離すや、またも夜業をなさざるべからず。 その仕事や昆布の塩掃き、ニシンの撰分け、かつお節の これぞ翁に取りては、一の 苦痛なりき。 |
安政4年(1857年) 13歳で、京都東洞院の乾物屋の丁稚 寅の刻:春分や秋分の季節で朝4時 |
人知れぬ夜間の苦痛昼間は車を引き、あるいは重荷を肩に、京のまちはおろか、伏見その他近郷近 在を馳せまわりき。店にありては朝となく、夜となく、「 その志いかに しかるに、布団はセンベイよりも薄きに、朝より身体冷えきりおれることとて、熟睡中 もしこれを発見されんか、叱責をこうむる必然なれば、人知らぬまに乾かしおかんとて、 最初は腹にてこれを温め、腹冷えれば背もて温め、とかくしてようやく生乾きとなれば、 すでに起き もはや睡眠を続くを得ず、やむなくそのまま起きでて、まず布団を畳みて戸棚に入るる を常とせり。ようやくにして人目にふれず、上長の苛責は免れるるをえるも、その苦心 は実に惨憺たるものなりき。 | |
指頭に残る凍傷の痕入浴は五日目に一度の定めにて、寒中のごときはニシン洗いもしくは車引きのために、 手に凍傷を生じ、入浴すれば、快味を覚えるも、上がれば指皮、自然に自ら身体を拭うにゆえなく、翁の指頭にやけどのごとき痕跡の残りいたるはこの凍傷の 痕なりきと。 現にその銭湯の主婦のごとき、世にも憐れなる翁のさまを見て、同情の念にたえずして、 手ぬぐいをしぼり、あるいは帯を結びあたえしこともすくなからず。 この時の嬉しさは、翁の終生忘れんとして、忘るあたわざりし所にて、後年いくたびか失 敗、 とは、翁の親しく著者に語られし所なり。 | |
幾たびか厠中に
乾物屋に奉公中の苦痛は、かくのごとく尋常一様にあらず、深夜人静まり、げきとして
声なきの時、幼くして行方しれぬ父や、母の愛を思うて暗涙を呑みしこと幾たびなりし
ぞ。 |
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