実業中立会代議士選挙応援翁は識見該博にして、政治上についても自らその終生の目的の商業発展に在りしをもって、政治上に関する意見は、努めて、吐露 せず、いわんや、その政党政派に関与するにおいてや。 しかれども、明治三十三年頃[1900年頃]、神戸市会議員中、政進二派にわかれ、や やもすれば市政をもって、政争の具となさんとするの傾向あるを慨せり。 この弊を矯正する、よろしくこれを 自ら率先して市内実業家を 当時、この市立会の市政壇上において、一勢力を有せしことは市民の記憶に存するところなるべし。 翌、明治三十四年[1901年]、代議士総選挙のことあり。 わが神戸市は貿易をもって生命とするものあれば、これが代議士のごとき、政党政派に関係せざる純然たる商業家、 もしくはこれと同主義者より挙げざるべしと。 種々物色の結果、太田保太郎氏をその候補者に推薦し、その老躯をひっさげて熱心にこれが運動に従事したり。 しかもその選挙の前日、劇場、相生座における演説会場に臨みて、その政見を発表せしことあり。 翁が政治上の意見を公衆の面前に発表せしは空前にして、絶後なりしなり。 しかるに、この選挙は不幸にして失敗に帰したり。 後年、明治四十三年[1910年]、松方幸次郎氏のその候補を争うにあたりてや、 病余の身なるにかかわらず、これが参謀となりぬ。 昼夜寝食を忘れて、画策するところありしが、今時徒労に属しぬ。 しかれど、その翁が己を忘れ、熱誠もって必死の努力をなせしことは、同志の深く感謝するところなりき。 | = ひとかどの見識。 片目のことではない。 政進二派は、政友会と進歩党。 1900年に、政友会と対立していた政党は憲 政本党。 但し、憲政本党は、1898年までの進歩党の党員が多かったので、憲政本党 を、進歩党と呼ぶ人が多かったのかも知れない。 = 端から注意して自由にさせない |
関係する公職、会社、団体翁は、神戸実業界において、偉大の徳望を有せしにかかわらず、生涯において、公職、 その他営利会社、団体などに関係せしこと極めてすくなかりき。これ、翁は専心貿易の 発展に尽瘁し、その力を数個に分かつの自他に利あらざるを 今、著者の記憶するところにより、神戸において関係する公職その他のものを挙げんか。 明治二十八、九年頃、[1895年/1896年頃]、神戸商業会議所議員たりしことありしも、 久しからずして退りぞかれし。 明治三十七年六月名誉市参事会員に挙げられしも、業務多忙のため、僅か一期間*にして、その職を去れり。 その任期は極めて身近りしといえども、その間、築港、上水道拡張、下水道改良、 電気鉄道敷設、その他市政上につきて、貢献するところのもの枚挙に よく、市民代表者たるの職責を尽せしこと人の知るところなり。 これより先、日清戦役後、廣瀬満正氏らとはかり、貿易業者の機関として、日本貿易銀行を設立し、 これが重役たりしも、その後、北浜銀行と合併とさせり。 また、貿易倉庫会社を設立し、これも重役たりしが、東京倉庫株式会社に譲渡されたり。 東亜セメント会社もまたその創立設立者の一人にして、創業の際、これが専務たりしも、 病を得て、執務を見るあたわじりしをもって辞退し、その後会社の組織変更とともに、その関係を絶てり。 その終生、重役を継続せしは、ただ神戸 病中といえども、重役会に出席して、ほとんど欠席せしことなきがごとき、もってその全班を推すべし。 その他、株式会社神港倶楽部社長、実業協会会頭、貿易青年会名誉会長などたりき。 なお、日清日露両戦役の後、株熱勃興*に際し、世のいわゆる実業家中、あまた、会社の創立発起人にその名を列し、 または、株主として、奇利を博せしものすくなからざりき。 翁は全くこれに異なり、その創立すべき会社にして、いやしくも、社会に有利有益なるものにあらざれば、これに関与することなかりき。 冷々淡々として、さらに |
一期間:一任期か? 東京倉庫株式会社は、1918年に三菱倉庫株式会社と商号を変更した。 東亜セメントは、1942年に浅野セメントと合併。 後、浅野セメントは日本セメントと商号変更し、 1998年に小野田セメントと合併し、太平洋セメントとなる。 神戸 株熱勃興=現在のIPO投資と同じブーム |