夫人と家庭夫人、名はさき子。蘭学者、児玉順蔵氏の孫女にして、安政四年(1857年)岡山に生まれる。 不幸、幼時、父母を喪い、祖父母の薫陶を受けて人となる。 性温良にして貞淑の聞こえあり。
翁の没後といえども、住吉の | 俸給、わずかに十一円 房治郎は、結婚の前年、明治9年に、役付になっていたので、 俸給はあがっていたと思われる。 =虚弱体質 慈母=自分の母親 | ||
祖父、児玉順蔵の略歴夫人の祖父、児玉順蔵氏は、岡山藩の老職年 これひそかに長崎におもむきて、オランダ人シーボルトの門に投ぜんためにて、 種々の されど、意志の堅固なる氏は、いささもこれに屈せず、かねて同館に出入りせる 常に洋書を懐にし、寸暇あればこれを 以後、蛍雪の刻苦空しからずして、 ことに蘭学に 精通し、医学医術において得る所ありしは勿論、広く西洋文明の多方面に眼をさらして、 会得する所すくなからざりしとなり。 しこうして、氏は長崎において、業なり郷里に帰りし。 しかれども、 しばらく備中国矢田村*に これぞ、岡山藩に この間、伊木家の子弟は勿論、岡山藩子弟の しかれども、氏は元々、大志あり、一典医の家を継ぎて 時に五十四歳たりき。 しかれども、傲岸にして不屈、しかも極めて言容の朴野なるに加えて、他郷より移り住める町医の、なとて浮薄なる商人に 常に、門前 時に、貧人の治を乞うものあらば、喜んで施薬救療せるをもって、これら窮民が氏を仰 ぐ、さながら神のごとく、親のごとかりき。 児玉順蔵の性向、かくのごとくなれば、浪華時人の風紀を ただ学友の緒方洪庵と相往来するのほか、他と交遊を絶ち、ひたすら、日頃、 「医宗玉海」、「玉海擥要」、「病理淵源」、「病理各論」などの著なりしは、この時代なり きと。 |
備中国矢田村 =現在の岡山県新見市哲西町矢田地区 =横文字のこと。 =授業料を持ってくる 門前 = ひっそりしていて閑散と寂しいこと。 門の前に 鳥網で 雀を捕えられるほど人の出入りが少ない。 | ||
かくて、児玉順蔵は、 かかる医界における偉人の孫女にして、商界の偉人、兼松翁に嫁せる。 真に奇縁と謂うべきなり。 児玉順蔵の業をおえて、長崎より帰郷、伊木家に身を寄するや、二十五歳にして備中国、 二十八歳にして一女を挙ぐ。 長じて夏井氏に嫁し、一女を生む。 これを兼松夫人さき子となす。 児玉順蔵氏、不幸、正嗣なく、その没後、荒木村以来の名家も、ために断絶するの ここにおいて、児玉順蔵氏の門下生たりし、花房義質、黒田綱彦、 石坂維寛、島村鼎甫、石井信義らの諸氏、これが再興につき、しばしばはかれるところありしも、ゆえありて、 しかるに、先年、 先帝*の親しくご統監あらせられし際、その生前の功労を思し召されし。 特に贈位の天命くだるにおよび、現存する門下諸氏、ますます児玉家再興の急務を感ずるにいたりし。 ついに、兼松夫人はや子の再甥、児玉寛二郎氏[医学士]、入って児玉家を再興することとなれり。 児玉氏は、多忙なる前途を有するの士にして、今、現に京都医科大学にありて、もっぱら研鑽中なり。 |
=ふさわしい地位や境遇に恵まれない。 羽子板橋 =大阪市西区にあった京町堀川の橋のひとつ =歳月が進んでも延び延び =1910年11月、岡山県吉備平野で行われた陸軍大演習 先帝=明治天皇 |