再び奉公生活をなす

しかるに、寄宿先の主人の云えるよう
「その目指すところの侍は頼もしきかは知らざるも、いま、突然尋ね行きたりとて、喜ん で前約を果たし呉れるべきや。
幸いに約束通り世話をなし呉れ、目的通りに武士となりたりとて、将来の出世は、いと 覚束なし。むしろ、町家に奉公して、立派な商人となるこそ好かれ」と。
その切なる勧告に、ふと心変り、その周旋もてとりあえず、京橋五郎兵衛町にて岡山藩 の仕出を請負える、児玉屋と呼べる割烹店に住み込めり。
この家における翁の役目は皿洗いと器物集めに過ぎずして、常に面白からず思い居る 際、病気にかかりたれば、同家を辞して林の寓居を()い、しばらく厄介にならんことを請えり。
林は親切なる人なれば、翁は見寄なき土地にて病にかかれるを不憫に思い、その介抱をなすこと極めて切なりき。
ようやくにして病、ひいたれば、こん度は飯田町の酒造家、(よろず)屋といえるに奉公したり き。
ここにては朝早きより夜半にいたるまで、荒くれ男の間に立ち交じりて、水くみその他 の荒仕事をなせることとて、その辛苦も一方ならず。
また、かかる所に幾年奉公したりとて、到底前途に何ら見込みのあらざるを悟るとともに、 しばしにても他人の言に迷いて、その目的を変ぜしことの愚かなりしを悔いたれば、今 は少しも遅疑せず、最初の決心通り大野のもとに赴くべく、同家のいとまを取りぬ。




文久2年(1862年)
数えの18歳で、江戸・京橋五郎兵衛町の割烹店で丁稚。
京橋五郎兵衛町は、現在の東京駅八重洲口から鍛冶橋までの辺り。
病気




飯田町の酒造家で丁稚
飯田町は、現在、千代田区飯田橋1丁目~4丁目

大野を()いて、履約を迫る

それより、翁は大野新右衛門を岡部駿河守の邸に()い、前約によりて、その身を世話 せられんことを懇請しけり。
新右衛門は、大阪においては上府せよと云いしは、一時の座興に過ぎざりしに、今その戯言を信じて、(おとず)れ来たれりと聞き、大いに驚きて、
「大阪においては、かのごとく云いたれども、実は江戸の地なる、汝の信じるごとく、そ んなに良好の地にあらず、すみやかに帰国してその身を立つるの計をなすべし」と。
百方、言を設けて、ひたすらその帰国を勧めたるも、一旦これと決心して上府したる翁、 いかでか、たやすくこれを承引(しょういん)すべからず
「我は貴殿の言を信じて上府の念、止みがたく、ついに親戚を(あざむ)きて、はるばる上府 したるなり。
されど今更大阪に帰りたりとて、もはや頼るべき方なし、ぜひ前約によりて 世話せられたし」と、訴えてやまざりき。
大野も事情を聴きては、その帰国を()うるあたわず、しからば、ともかくも留まるべしと のことにて、翁はその日より大部屋に預けられ、門番の手伝いをなすこととなりぬ。

岡部駿河守邸の門番手伝い

岡部駿河守の知遇を受く

かくて門番の手伝いをなしつつ日を送るうち、ある日岡部駿河守、ふと翁を認めて、大 野よりその素性を始め上府の次第を、つぶさに聴きとりて、大いに同情を寄せし。
翌日より奧付中小姓に挙げ、その息子の武術、学問の稽古に通う際、その送迎をなさ しむることとせり。
翁の武家奉公をなしたるは、つきるところ、学問をなさんために他ならざれば、その供 先と在邸中とを問わず、種々の方法をもって稽古を試み、若主人稽古の間は石刷り本 にて習字をなし、または書物をひもとくを例とせり。
駿河守は翁の勤勉忠実にして、その前途に望みあるを認めて、常にこれを鍾愛(しょうあい)したる が、翌年大目付役に任ぜらるるや、翁は御用部屋書き役に抜擢せられ、かたわら、講 武所において、銃術を調練することとなりぬ。
これ当時にありては、実に破格の恩典なりしなり。






岡部駿河守邸で、奥付中小姓に抜擢される。



幕府の御用部屋書役に

講武所で銃術を習う。