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著者:西川文太郎
初版:1914年9月
ここに全文を公開
兼松株式会社の創始者、大阪商船設立発起人、
神戸市の基礎つくりに貢献
本文の翁(おきな)は、兼松房治郎翁を指す
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家系

(おきな)、 名は房治郎。
今より七十年前*、すなわち弘化二年[1845年]五月二十一日をもって 大阪江之子*に生まれぬ。 父は広間彌兵衛といい、翁はその長子なり。
兼松はその姻戚(いんせき)の姓にして、翁がその姓 を名のるにいたりしは、はるかに後年のことに属す。
掲者注:七十年前=著者は本書初版の年(大正3年、1914年)を起点としている。

江之子島=大阪市西区
父は尾張国春日井郡布袋野村*の 広間家の長男に生まれしかど、年、壮なるにおよんで 素行修まらず、父の怒りにふれて勘当せられ、大阪に来たりて、北安治川なる畳表商 吉田某に奉公す。
父はその後、おおいにその品行を慎み、表裏なく、忠勤を励みければ、主人いたくこ れを愛し、まもなく、通勤手代にあげて、江之子島に別家せしめ、自ら媒酌して、山城国伏見帯屋町の齊藤吉右衛門の末女八重をめとらしむ。
これ翁の生母なり。

布袋野村=現在:愛知県江南市布袋野町

幼にして父に離れる

翁生まれていまだ三ヶ月に達せざるに、父は畳表買い占めの嫌疑により、官の偵策急 なりしかば、その身をおくに所なく、ついに家族に告げずして大阪を脱し、その所在を 韜晦(とうかい)せり。
されど、父は商用にて旅路に日を重ねるを常としたなれば、母も最初は深く心に留め ざりしかど、その後、日数を経て、夫の身の危うきを聞き、ここに初めてその(とん) (ぼう)せしを 悟りて、はたと当惑なしぬ。
さりとて、主なき家に、いつまであるべきにあらざれば、親族とも談合して、家屋その他 の財産を売り払い、自分は嬰児を懐にして、はるばる尾張に赴き、夫の実家に寄食す ることとなりぬ。
祖父および叔父なる人の撫愛(ぶあい)すること厚かりけれど、夫の行方はさらに知るよしなく、 わが身のみか幼児まで、際限なく他家に厄介ならんこと、いと心苦しければ、居ること 年余にして、同家を辞し、伏見なる親里に、その身を寄することとなれり。


韜晦(とうかい)=行方をくらまし、隠れること

立志のわか芽ここに発す

かくて母帰郷の後は、愛児を将来有為の者とし、一旦衰えたる家道を挽回せしめんも のと、ひたすらその教育に身をゆだねいたりし。
しかし、ここに両親および親族の切なる勧告もだしがたく、かつ愛児の将来を思いて、 心ならずも同地の魚商北村某方に再嫁せり。
時に、翁は四歳なりき。 しかるにこの母子の薄倖なる、それより九年の後、継父なるもの病んで鬼籍に入りぬ。
同家は主人在世の間こそ、相当の生計を営みいたれ、別に貯蓄のあるにあらざれば、 主人の死後は営業を継続し得べくもあらず、母は愛児を伴いて再び実家に帰るのや むなきにいたれり。
翁にして尋常の小児ならんには、今や腕白盛りにて、ただ遊楽にのみ浮き身をやつすべからんに、世にも(さと)い性質とて、日々母のもの思わしきさまを見ては、人知れず断腸 の感、悲憤の念に堪えじ。
ある日、心ひそかにおもえらく 「我、今年十二歳の少年なるも、いかにもして立身出世をなし、衰えたる家道を興して、 父母の鴻恩(こうおん)に報いるべし、これがためには水火も敢えて辞する所にあらず」と。
翁は一日も空しく母の膝下(しっか)に留まるをいさぎよしとせず、 我が志を立つるは、遠く他国に赴きて、あまねく辛酸をなむるにしかずとなし、その決心を語り出でぬ。

1853年(翁、数えで9歳):
ペリー提督、浦賀に来航

本文は、翁の年齢を、"数え"で記述してあります。