足軽となり、更に武士となる駿河守の翁を遇すること、上のごとく、他に異なるものありといえども、日々の用務激し くして、その志すところの学問も、予期のごとくなるあたわず。ここにおいてか。 翁の意志はいささか動揺し始めたり。 ひとたび、その意志の動き初め ては、一日もその邸に在るを欲せず、旗本黒鍬某の周旋により、 四石二人 しかれども、翁、もとよりそのような下賤の地位に安んずるものにあらず、またかかる境 遇にありては、学問をなす余暇なければ、しばらくこれを断念し、一旦両刀を帯せしう えは、 そこで、岡部の侍の中に周旋する者ありて歩兵となり、一人半扶持の加増を得、鉄砲 または大砲の稽古に余念なかりき。 |
百尺竿頭、一歩を進む =すでに工夫を尽した上にさらに向上の工夫を加える |
始めて父に面会す翁は二歳の時、他出して行方知れずなりたる父のことは、常に忘るる今や武士となりて小閑を得たるをもって、しばらく されど、尾張は郷里なれば、あるいは帰りおることもあらんかと、さらに同地に赴き、か ねて聞き知れる親戚、兼松氏を、名古屋在の岩崎村*に訪問し、 始めて父の名古屋に健在せるを知り、ここにようやく十余年の宿望を果たすことを得た り。 その時における翁の喜び知るべきなり。 前に記せるごとく、翁は広間家の嗣子なりしも、兼松家の主人、いたく翁の才気を愛し、 兼松家を 父もやむなく、広間家は他の血縁中より継がしめ、この時より翁をして兼松姓を名のら しむることとなせしなり。 以後、父は翁の扶助によりて安楽に余生を送り、明治七年七月、壽をもって | 文久3年(1863年) 19歳で、父に再会 岩崎村=現在の愛知県日進市岩崎町 兼松家の懇望で、同家の養子となる = 高徳の人が死ぬこと。 |
筑波の役に出陣すたまたま元治元年[1864年]の春三月、水戸藩士田丸稲之衛門(田丸税稔氏*の父親)、 藤田小四郎の徒、尊皇攘夷の兵を筑波山に挙げ、ついで野州太平山*に移る。当時藩内、党を分かちて、尊皇攘夷を唱うるものを正党、または天狗党と云い、佐幕開港を唱うるものを奸党または諸生派と云う。 奸党、市川三左衛門等、筑波挙兵の防圧方を幕府に請い、幕府は討伐の軍を発せり。 時に、翁、講武所頭取兼歩兵奉行より歩兵指図役 このときに際して、市川等佐幕の徒、幕吏の声援をかりて、正党の絶滅をはかりたる。 正党の武田耕雲齋、山国兵部等、之を聴きて大いに怒り、同年七月城南[水戸]吉田に奸党討伐の兵を挙げ、 那珂湊その他に戦い、田丸稲之衛門の率いる筑波勢の援けを受くるにいたる。 耕雲齋の兵、よく戦い、戦闘数ヶ月におよびたるも、同年十月幕府および信州(長野県)、野州(群馬県と栃木県)二十余藩の兵、 大挙し来たるに会し、榊原新左衛門以下数千名降伏せり。 幕府、ことの |
田丸税稔氏は、後に、神戸地方裁判所長になる。兼松房治郎と交流を持つ。 太平山=栃木県の山 1864年(元治元年)、 20歳で、幕府軍小隊長として、栃木県で戦う。 |
之を見て、田丸、藤田等の筑波勢および武田、山国等の大発勢はついに一団となり、
その よって幕府は近傍の諸藩に命じ、兵三万余をもって、遠く糧道を絶ち、 天狗隊の中には、一橋中納言に抗するを欲せざると、 積雪 これをもって、翁等の一隊は、江戸に帰陣したり。 | 死士=決死の 一橋中納言 =のちの将軍、徳川慶喜 =凍え飢えること 翁の出陣、歴戦は10ヶ月 |
初志をひるがえして商業に志す翁はその年フランス兵駐屯司令長官の下について、フランス法陣兵の式を伝習す。なにごとも熱心にして、その しかれど もその職務の面白からざることは、足軽と較べても数歩しか替らない。 時に、翁、つらつら考えらく
「我、かって武士たらん志望なりしも、今、その実際を見るに及んで、その志望の誤れりを悟りぬ。
我これより武芸を励みて、たとえ大隊長ないし
ここに初志をひるがえし、翌年[1865年]三月、病のゆえをもって、職を辞し、横浜に出でて、
しばらく内外貿易の状況を視察して、ひとまず、大阪に帰りぬ。翁の幼児よりこの時まで来たりし跡を考えるに、醤油屋より乾物屋、ろうそく屋より米屋、 また足軽、武士と、さながら走馬燈のごとく、転々極まりなきがごとくなりといえども、是れ、 必ずしも翁の執着心なきにあらず。 成年客気いまだ定まらず、加うるに不幸、その身をおくに適所をえざりしこと、その原因たらずんばあらず。 かかるうちにも、翁は歩一歩、その本舞台に入りつつありしなり。 |
フランス兵団に属して、フランス式軍法を習う。 慶応元年(1865年)、数えで21歳。 武士としての出世志望をひるがえし、商人として身をたてることを決意。 幕軍をやめ、横浜を視察後、大阪へ帰る。 |