新潟でオランダ人と今度は越後の新潟へと方向を転じたり。「新潟も開港地なれば、さだめし外国人も入り込み居るべく、彼らを相手に奇利を博せん。」 とは、翁の目的なりしなり。 しかれども、当時、翁の懐にせる金子、僅か十銭に過ぎざれば、なにごともなすあたわず。 さすがの翁も衷心憂なきあたわずといえども、また何とかなすべき方便あるべしと、 新潟市中を そのうち、偶然、神戸において懇意なりし、オランダのアデリアン社中のカネテラなるものに 彼もまた翁の手腕を信じおれるがゆえ、その奇遇を喜びて商品の売買周旋を依頼したれば、翁は之を諾して、すこぶる努むるところあり。 まもなく、数百金を得、またその節、盛んに同地に輸入されし砂糖にも関係して、少なからぬ利を獲たり。 翁の利益はただこれのみに留まらず、ふと、当時、加賀藩商事方 の主宰たりし、谷道英橘氏[現在の谷道回漕店主の父親]と懇意となりて、綿、砂糖、鉄などを加賀藩に売り込みし。 ために、かち得たれる利益は、当時の翁に取りては、すこぶる多額のものなりき。 翁は新潟に留まる一年有半に及べるも、 同地には永住の意あらず、その得るところの金額、また少なからぬを幸い、 これを資本に新事業を企てんと決意せし。 衆人の引き留める | この年1868年は、9月までが慶応4年、10月から明治元年。改元して3ヶ月ほどで、年末を迎えた。 明治2年までの戊辰戦争で日本中が騒然とした中で、房治郎は新潟と東京で商人に徹していた この年、房治郎は数えで24歳。 | ||
汁粉屋を開業新潟より東京に出で、新事業を求めつつあるなか、 下谷の和泉橋通りに当時は貯蓄の金もありしこととて、その店構えも数寄をこらし、その材料も精選し、かつ値も他店より廉なりしかば、 開業以来、相当、繁盛を極めたり。 しかし、これは全く一時の好奇心に出でしものにて、よし業務はますます盛大なるにせよ、 永くこれを持続せん こと翁の本意にあらず。 かつ、横浜港における対外貿易の、日にますます隆昌におもむくを目撃しては、 一日も いまだ半歳ならずに、早くも店舗を閉ざして、またも横浜にくだりぬ。 |
明治2年(1969年)25歳 東京で汁粉屋を開業。 下谷は、東京都台東区内の地名。 | ||
またも横浜で大儲けし破産す横浜にくだりてまもなく、新潟において親しくなりたる、越中高岡の商人、谷口および池津の両人と会せし。その計画が図にあたりて、利するところすこぶる多く、日に月に事業ますます盛大となり、 その前途の洋々たる、実に春海のごとくなりき。
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蚕の卵を産み付けた紙。この時代、生糸の産地のフランス、イタリアの蚕が、伝染病で殆ど全滅した。日本の蚕は健康なので、大人気となる。 明治3年(1870年) 26歳 | ||
翁、またその一人にして、今までは紳士紳商として世に立ちいたりも、この打撃のために
またも赤裸々となりぬ。商界を退きて英語を苦学すことここにいたりては、さすがの翁も施すすべもなく、ある日、ひそかに思えらく
「我、今、また失敗して、かかる惨境におちいれるも、要は時なり。
すなわち、横浜港居住の米国の宣教師ビー・エイチ・バラーフ氏について英語を学ぶこととせり。
しかるを、これを考えずに、にわかに挽回を図らんと苦心焦慮するは、実に愚の極めなり。しかず、この際、 未熟の英語を練習して、おもむろにその時期のいたるを待たんには」と。 このバラーフ氏は日本語をよくでき、ことに夫人は最も流暢に日本語をあやつるのみならず、 夫妻とも非常の好人物にて、懇切に翁を教導せりと云う。 |
赤裸々 =ここでは、全てを失った状態の意味 兼松商店の東京支店長だった前田卯之助氏によれば、ビー・エイチ・バラーフ氏は、James H. Ballaghのこと。 Mr. Ballaghは、文久元年(1861年)に、横浜に渡来し、伝道を開始。ヘボン式ローマ字で有名なヘボン夫妻などと ともに、日本基督教会建設の功労者。聖書の講義を日本語で行い、賛美歌の邦訳もはじめて試みた。 在日伝道55年。 | ||
翁はこの人等について、まず聖書、文法などを学びて大いに得るところありき。 翌明治四年弁天通に外国語学校設立されしをもって、バラーフ氏の手を離れて同校に入学し、 伊藤彌次郎氏*(前・鉱山局長)より、種々訳文などの教えを受けたり。 このように記しきたれば、翁は悠々として勉学し居たるがごときも、この間の生活状態は、容易なるものにあらず。 食事は大抵パンと水をもってし、絶えて枯腸を慰する*ことなし。 たまたま友人より些少の金を借り受くれば、直ちに牛肉店に馳せつけて、一鍋の牛肉に舌鼓をうち、 ようやく空しき胃嚢をみたすをもって、無上の盛餐と覚ゆ。 その窮状は真に憐れむべきものなりき。 かくのごときは凡庸の徒の到底堪える所にあらざるなり。 唐土のあの かくして困難と戦いつつ英語の就業を積めるうち、早くも二年余を経過したれば、翁は新生涯に入るべく、 翌明治五年[1872年]二月横浜を辞して大阪へと |
のちに、明治6年になって、伊藤彌次郎氏とは、劇的な再会をする。
本書初版時の大正3年の直前に伊藤彌次郎氏は政府の鉱山局長になっていたことを記している。 この時期の英語修学者はまた稀少ながら、翁は約2年、英語を学習した。 =「空腹をいやす」の美文的表現。 灯をともす油が買えず、雪を窓の回りに集めてその光で勉強した、 4世紀~5世紀の東晋の人。 灯をともす油が買えず、絹の袋に数十匹の蛍をいれて、その光で勉強した、 4世紀の東晋の人。 木版活字なので、本の文字サイズが異常に大きかったのだろう。 新橋-横浜間に、最初の鉄道が、明治5年5月7日に試運転開始。翁はこの3ヶ月前に横浜を去った。 | ||
渡米を企てて、果さず翁は、大阪への途中、ふと、伊勢の取引先に万に一分にても払い呉れるれば路金の足しにもならんとて、試みに同地に立ち寄りたるに、 幸いに、百五、六十両支払い呉れたれば、これを懐にして大阪に赴く。 とりあえず、江戸堀なる扇屋旅館に投じ、四方に奔走して事業を求めたるも、あいにく適当なる事業を見い出さざりき。 米国渡航は翁のかねての念願なりかば、この際、その素志を達せんものと、これを二、三の友人にはかりたる。 しかるに、いずれもその渡航を不利なりとして、援助を与うるものなかりしをもって、渡航を決行するをあたわず、空しく時日を経過せり。 |
=債権 |