虐待に堪えずして乾物屋を去るそれ以来、その虐待を忍びつつ日を送りしが、ある時、久々にて伏見なる母を省みしに、 母は翁のいたく母は、「奉公は辛きものとはかねて覚悟しいたるも、かくまでとは思わざりき、祖父母とも 相談の上、しかるべき家に奉公替えすべく取りはからうべければ、しばらく辛抱なすべ し。」 とのことにて、その日はそのまま立帰りしが、日ならずして、この乾物屋よりいとまを取る こととなれり。 この間、実に一年と数ヶ月なりき。 |
省みる=帰省する |
ロウソク屋より米屋に移る今度は、やはり京の高倉松原通りなるロウソク屋に奉公せり。同家では されどロウソク屋の丁稚も見込みなきをもって、居ること約一年にして、また同家を辞し、 再び、大阪なる丹波屋をたより、その周旋をもって、江戸堀五丁目なる米屋孫太郎方 に奉公しぬ。 |
1858年、14歳。乾物屋を辞め、ロウソク屋へ。 大阪江戸堀の米屋へ。 |
悪筆に恥じて発憤すある日、その得意先なる久太郎町辺りの砂糖屋にて、米の代金を領収し、その受取書 をしたためたるに、店頭に居合わせたる五六人の丁稚は、これを見るや互いに顔を見 合わして失笑したりき。翁はかねてより自分の無学にして、筆蹟のつたなきを知り、いかにもして学問をなした きものと、考えいたる矢先、目前、自分の悪筆を嘲笑せるがごとき挙動を見て、いよい よますます学問の必要なるを痛切に感じたりとぞ。 | ここをクリックください。死去する1ヶ月前の 兼松房治郎の手蹟です。 雅号は、百松翁。 |
母を喪しのうて志ますます堅しとかくする内、伏見なる祖父母は世を去り、続いて母も病んで天涯不帰の客となりぬ。翁が日夜精苦堅忍せるも、つまるところ、一日も早く出世して、日頃、おのがために身を犠牲としたまえる母に慰安を与え、孝養を尽くさんがためなりし。 いまだその目的の千が一も達せざるに、 当時、翁の感懐果たしていかん、そぞろに身世の数奇を回顧して、うたた熱涙の | 1859年、翁15歳にて母を喪う。 1859年(安政6年)、安政の大獄 1860年(安政7年)、桜田門外の変、横浜が海港場になる |
上府の念
米問屋に奉公中の事なりき。 | 上府は、江戸に行くこと。 この時代、江戸は首都でないので、江戸に行くことを上京とは云わない。 |
無断大阪を去って東上す当時翁の財産は僅かなる奉公の貰い溜めと、一枚の着換とに過ぎざれど、いかに心は 焦るも、さらに詮すべなく、この上はされど、実を告げれば、とうていその請は許されざるべく、 さりとてこれを ある日、所持品をとりまとめ、無断にて主家を立出でて、縁家に赴き主人に面会し、言 を構えて幾千の金子を借受くるをえたり。 翁はその事の案外に容易なりしを喜び、同家 を立出ずるや、直ちに もとより無断出奔せしことなれば、わざと同地の縁家には立寄らず、寺田屋といえる旅 籠屋に一泊の上、宇治を経て奈良に入り、ここにおいて柳行李、もしくは雨合羽など相 当の旅装を整え、いよいよ江戸を目指して出発したり。 時に十八歳の夏なりき。 途中、 翁はその身の素性より、大阪において江戸番町なる岡部駿河守の用人、大野新右衛 門と、かくかくの約束をなしたれば、これを果たさんため、上府する旨を、つぶさに語り 聞こえたり。 林はその と、親切なる言葉に、翁はさらに疑うところなく、その好意を謝して旅金を残りなく同人 に託し、ともどもに東海道の宿々を経て、なにごともなく江戸へ到着したり。 しかれど、馴れぬ土地とて直ちに大野のもとを尋ねべくもあらねば、林の勧めにより、と もかくもその知人の宅に |
1862年(文久2年)、翁、数え歳18歳で、江戸へ出奔する。 八軒家=大阪市中央区の船着場 白須賀=現在の静岡県湖西市 |