役員に抜擢せらる

ある日、西村支配人は翁を面前に呼んで(いわ)く、
「汝の職務に勤勉なる感ずるに堪えたり。しかれども、最初の一年は勉強家*を仮装せるにあらざるなきかを疑えり。
しかるに二年目もさらに(かわ)ることなし。
しかもなお一カ年を試みたるに、実に三年一日のごとくにて、このうえはさらに疑うべき所なきを確認したければ、 今日より役員*に抜擢すべし」と。
これ翁が満三年間、その賤職に甘んじて、忠実に勤労したる結果のようやく現れきたりしものなり。
とりもなおさず、貸し勘定主義の勝利にして、翁の初めて、ややその所を得、 いよいよその手腕を(ふる)うの時期に到着したるものと ()うべし。
今日(こんにち)まで丁稚格にして、 「房吉、房吉」と呼び捨てにせしもの、一躍、役員の列に加われることとて、同輩はもちろん、部内の反抗は非常なるものなりし。
とはいえども、翁はさらに頓着するところなく、泰然としてその職をとりぬ。
勉強家
=勤勉家のこと

役員
=ここでは、役職者の意味か。重役ではない。


明治9年(1876年)32歳
三井組銀行部の役付きに。

明治9年に、為替バンク三井組は、三井銀行へ改組。

明治10年(1877年)33歳
さき子(21歳)と結婚。
西南戦争。

二大改革の建議

翁は職務に勤勉なりしのみならず、主家の利害に対しても、また極めて忠実なりき。
この特色は三年間の等外時代においてよくこれを認むるをうべし。
いわんや、その役員に列せらるるにおいてや。
翁はまもなく西村支配人に対して、ふたつの建議を提出したり。
  1. 民間からも金を預かり、民間にも貸し出しするべし
  2. たもとの長い服を禁止し、前垂掛けとするべし
その要に(いわ)く、 銀行なるものは、決して諸官庁の金を預かることのみをもって、その本務とすべきものにあらず。
(当時、三井銀行は官庁の金のみを預かりて、民間の金は預からざりしなり。) 民間の金を預かり、民間の金融機関たるこそ銀行の本務なりと聞けり。
今、人文* 大いに進みつつあり。
銀行家のごときも、旧慣をいぜんとして墨守しおるべきにあらず。
宜しく、時運を察して、新方面に発展するの覚悟なかるべからず云々。
翁はこれに付帯して、さらにもうひとつの建議をなしたり。
当時、三井の長袖*、 長羽織とて、三井店員はいずれもこの悠長なる服装をもって、その誇りとなしたりしを、 翁は今、これを改めて、前垂掛けとせんことを建議したりしなり。
その建議の眼目はお役所風を廃して、平民的とすべしというにありしなり。
今日において、これをみれば、別に新規の名案とは称すべからざるも、四十年前において、 早くもこの説を主張す、卓見にあらずして何ぞや。
翁の識見の凡ならざるを、ただにこの一事にとどまらず、その当時においては一顧だも与えられざりしものにて、 その後数年、もしくは、十数年を経て、ようやく世人の着目するにいたれるの類、枚挙に(いとま)あらず。
上のごときの建議のごとき、 最初は重役の()るるところとならざりしも、 半歳の後にいたりて二改革とも、これを翁に委ねることとなりたり。
人文
=ここでは社会制度の意味か

長袖
=たもとの長い和服

改革案の遂行

改革の実行を委任されたる翁は、まず大阪の有力なる商人を歴訪して
「今後、三井は民間の預金を取り扱い、併せて諸君のために資金の用達をなす事なりたれば、 諸君は宜しく、この機関を利用せらるべし」との意味を説きまわりたり。
しかるに、当時にありては、銀行の何ものたるかを解せるもの殆ど絶無なりし。
といえども、三井の信用と声望とはたちまち一般の注意を喚起し、同行に預金するもの 踵(きびす)を接し、たちどころに、数十万円の巨額に達しぬ。
この時、翁は、当座掛長兼貸付掛長なりき。
預金のことは案外容易なりしも、その第二の改革たる服装の件にいたりては、 部内一般の反抗は非常なるものなりき。
前にも記するごとく、彼らは当時長袖、長羽織をもって、 三井の特色と信じ、ひそかにこれを誇りとなしいたたれば、これを廃することをもって三井の位置をくだすものなりとまで極言して、 その改革説に反対したり。
しかも、翁は強固なる決心をもってついにこれを実行するをえたり。
なお、同行が、従来の日本風の帳簿*を廃して、 西洋簿記法*に改めたるもこの際のことにして、 これまた翁の意見を採用したるものなりきと。
翁はようやく行務の改革に力を尽くせるのみならず、明治八、九、十の三年間は各地に出張して、 かねて難件として殆ど手を着くるあたわざりし (とどこお)り貸し金* 数百万円を回収して、おおいにその手腕を現したり。
されば、行主始め重役らの翁を信ずるの念、ますます厚くして、特別の賞与を受けしことも一再にとどまらず、 ついに三井元之助氏を代理して、米商会所*の肝煎(きもいり)となるにいたれり。
かくのごときは、当時、三井家においては、実に破格の取り扱いにして、翁の信任のいかに厚かりしかを推知すべし。

日本風の帳簿
=大福帳

西洋簿記法
=複式帳簿

(とどこお)り貸し金
=不良債権

米商会所
=大阪堂島米穀取引所の前身。 房治郎が米商会所の肝煎になったのは、明治9年。


大阪商法会議所の設立

明治十年[1877年]の頃なりき。
故五代友厚氏は、古来、商工業をもって立てる大阪の地に、 いまだその機関の設けなきを慨嘆し、商法会議所設立のことを中野梧一、藤田傳三郎、 廣瀬宰平、[以上、故人*]、下河辺貫四郎、村山遼平および兼松房治郎らに(はか)りしに、いずれもその挙を賛してこれが設立委員となり。
大阪市内における商工業組合、その他、地位名望ある商工業家につき、商法会議所設立の必要を説きたるも、 商工会議者の智識の程度、いまだ今日(こんにち)のごとくならざるをもって、 最初はこれに応ずるものなかりき。
しかれども、翁その他設立委員ら鋭意、これが糾合に尽瘁(じんすい)せし結果、 明治十一年[1878年]八月をもって、これが設立を見るにいたり。
設立委員らはすなわち役員となり、以後、社会に貢献せることすくなからず。
なかんずく、明治十二年[1879年]から十三年にかけて、政府より条約改正につき、その資料として関税率調査の命あり。
五代友厚会頭始め役員ら、熱誠、もってこれが調査に従事し、 詳細なる調査書に、明確なる理由を付して政府に復命したる。
その事跡の顕著なるものにして、政府より、その労を多として、金五百円を下賜せらる。
もって、その調査の価値いかんを知るべし。
くだって、明治二十三年[1890年]、政府は商業会議所条例発布の必要を認め、 全国各商法会議所よりその代表者を農商務省に招集し、これが諮問会を開けり。
大阪商法会議所よりは、翁および他一人を代表委員として列席せしめたり。
当該条例草案に対して、 翁大いに意見を開陳し、その意見の採用せられしもの少なからじとなり。





ここでの、"故人"は、大正3年、本書の初版時に、死亡していたことを 示す。





明治11年(1878年)8月、34歳
大阪商法会議所(大阪商工会議所の前身)の設立に参画し、役員となる。
この就任の初めは、三井組三井元之助氏を代理したものである。

病をもって三井を辞す

翁はかねて喘息および膝関節リウマチスの痼疾(こしつ)ありしに、三井組に入りていらい、 心身を過度に労せしためか、とかく健康常ならず、かつかねて独立にて商業を(いとな)まん意ありし。
ついに明治十四年[1881年]十一月にいたりて辞職を申し出でたり。 当時、大阪分店取締八等なりき。
三井にても翁がすぐる十年間に、同店のために尽くしたる功労顕著なるものありたれば、 深くその退職を惜しみて、種々その労に(むく)ゆるところありたりとぞ。

房治郎の三井組銀行部勤務は
明治6年(1873年)3月、29歳から
明治14年(1881年)11月、37歳まで
三井組(三井銀行)への貢献もさることながら、房治郎には 大企業の業務運用を学んだ期間でもあった。
また、大阪財界の形成への貢献を始めた 時期でもあった。