薪炭事業経営

それより大阪中之島において、薪炭卸売の業を開き、日向国(宮崎県)の山林の立木を買収し、
同地において製炭のうえ、大阪に輸送して販売するの方針をとりたり。
しかし、販売担当者に不正行為ありて、少なからず、欠損を生じたると。
一方において、翁ら同志中に汽船会社設立の議起こり、これに従事せざるべからざることとなりしをもって、断然、廃業したり。
以後、翁は大阪商船会社の設立に尽力し、かたわら、新聞事業経営の任にあたりおりたり。
明治15年(1882年)38歳、
大阪中之島に、1800余坪の土地を保有して、薪炭卸売業を行う。


この年、日本銀行設立される。

大阪商船会社の発起設立

わが国海運業のようやく発達するに従い、邦人中、船舶を所有せるもの、逐次、多きを 致したりといえども、船主の多くは微力にして、その有する船舶も大ならず。
しかもその所有数は一隻、もしくは二、三隻に過ぎず。
従って、その船舶の総数僅か 百余隻に対して、船主の数、実に六十有余の多きに及べるがゆえ、自然、各航路の競 争激甚を極めたり。
しかるに前記のごとく、船主の多数は、無資力なるをもって、船体の修繕も充分ならず、 機罐(きかん)のごときも不完全にして『ブリキ機罐』の称ありし程なりき。
海難は頻々(ひんぴん)として各所に起こり、 人命を()とす、その幾千なるを知らず。
政府においてもその取締法の設けしも、一般の知識、なお幼稚なるをもって、 法律もこれを実行するに(よし)なかりき。
翁つらつら、この海運の現状をみて、黙止するに忍びず、 「今、もし、海運の状態をして、このままに抛擲(ほうてき)し、 なんら改善の方法を講ぜざらんか、 単に船主個人の不利のみならず、国家の損失また計るべからざるものあり。
この際、これらの小船主がうって一団とし、もって確実なる汽船会社を設立し、その船舶のうち、 やや堅牢なるものには、これに修繕を加え、朽敗(きゅうはい)してその用に堪えず、 危険の恐れあるものは、ことごとく、廃船して船客に安心を与うることとせば、国家の利益、けだし大なるものあらん」と。
すなわち、これを河原信可(のぶよし)、廣瀬宰平、 寺村富栄(とみよし)、[以上、故人]、 玉手弘道、伊庭(いば)貞剛(ていごう) の五氏に(はか)りしに、いずれも双手を挙げて賛成せり。
ここにおいてや、六氏は、商船会社設立のことを発起し、まず、松方伯爵その他の元老に会って、その教えを請いたるに、 熱心なる賛成を得たるをもって、いずれも必死の大覚悟をもって、もっぱら、これにあたることに決しぬ。
これより、翁ら発起人は、まず各船主の合同に着手したるに、船主は六十有余の多数あり。
しかも眼前の小利に眩惑して、永遠の利益を思わざるをもって、その議容易にま とまらず。
よって各発起者は阪神は勿論、中国四国、遠くは鹿児島地方に出張し、親しく船主につきて、 熱心にその利害得失のあるところを説き、かろうじて、その合同を肯諾(こうだく)せしむることを得たり。
大阪商船は
60有余の船主を合同させて、1つの会社として設立された。

不健全な値引き競争をなくし、近代的な船会社が誕生した。


本文では発起人6人としているが、実際は7名。
伊庭貞剛(住友役員)
河原信可(偕行会社社長)
兼松房治郎
玉手弘道(米商会頭取)
寺村富栄(代言人)
中原昌発(同盟汽船取扱会社頭取)
廣瀬宰平(住友家総理人)
が、設立を盟約したのが明治15年11月。


翁は、明治15年末に上京して管船局長に面談し、 郵便物逓送事業の受託、助成金交付について交渉。
明治16年春には、大分県に赴いて、別府を中心に各地で船主を説得。
明治17年4月の船主発起人総会には、原案説明を行った。
創立時の船主55名、船舶93隻。
明治17年5月1日に、大阪北区富島町十四番地に開業。 資本金120万円。

しかれども、その船舶の評価にいたりて、またまた大物議を生じ、ために一時はその破裂の不幸を見んとせし。
幸いに船主所在の各地方長官、その他有力者の尽力と、逓信省の公平なる評価とによりて、ようやく、各船主の合同なり、 大阪商船会社は創立せられたり。
時に、明治十六年[1883年]四月なりき。
かくのごとくにして会社は組織せられたりといえども、一難去りて一難来たり。
一方においては、合同のために、その衣食の資に離れたる事務員らの、 船主を使嗾(しそう)*して会社に反対せしめんとするあり。
また、一方においては、従来、不規律なる各船に雇い使われたる放漫無智なる船員を、 一定の規律の下に、置くこととなりしより、彼らの不平は勃然(ぼつぜん)として起こり、 ついに船員の同盟罷業(ストライキ)をさえ見るにいたれり。
しかれども、もし会社にして彼らの要求を()れんか、 不逞(ふてい)の船員は会社を屈服せしめたりとなし、 将来の改革上に非常なる障害を及ぼすべきをおもんばかりて、会社はその 首魁者(しゅかいしゃ)に対して断然たる処置を施し、 とにもかくにも事業を開始するにいたりぬ。
しかりといえども、彼ら船員は、いまだ全く心服したりというにあらねば、いついかなる変事を生ぜんもはかられず。
ここをもって、翁を始め各取締役は、自ら各船に分乗して、船客の待遇より船中一般のことにいたるまで、 これが矯弊(きょうへい)*に着手せり。
しかるに、いまだその成績を見るに及ばざるに、一方、汽船取扱代理店においては、従来のごとき不当の 利益をむさぼるあたわざれるをもって、会社に反抗す。
また上、荷艀(はしけ)船船頭、仲仕のごときも、 不正の収入なきにいたれるをもって、さらに会社の命令に服従せず。
ややもすれば不穏の挙に出づるおそれあるより、重役その他の 社員は、意を安んじて事務をとるあたわず。
創立後半歳余の間は、あたかも敵地に臨めるの感ありし。
約一年を経て、やや、その緒につき、それより船員の淘汰をなし、船舶の改良を行い、 もって今日(こんにち)の礎地を形造るにいたれり。
その間、彼ら重役の苦心、実に惨憺たるものあり。
もし彼らにして異常の熱心と、確固(かっこ) 不抜(ふばつ)の決心とをもって、ことにあたらずんば、いずくんぞ、よくその目的を達するを得んや。
翁その他の発起人は、(ただ)に、創立にあたりて、 幾多の困難に遭遇せるのみならず、そのこれがために投ぜし私財また少額にとどまらず。
ことに翁のごとき数千円の巨額にの ぼれるも、釐毫(りんごう)の報酬だにも受けざりき。
大阪商船会社は、創立二カ年の後にいたり、ようやく株主総会の決議により、報労の一端として、 同社の株券を翁に贈与せしが、その株数、わずかに二十枚なりき。
本書では、大阪商船の設立を、明治16年(1883年)としているが、正しくは、 明治17年(1884年)4月。
房治郎は、設立と共に取締役に就任。この時、房治郎は40歳
本文にあるように、無給の取締役だったらしい。
創業後、明治17年、18年は不況の期間で、翁もその乗り切りに身を挺した。

使嗾(しそう)
=そそのかすこと






矯弊(きょうへい)
=弊害を改め直すこと


当時、海運界に覇を唱えた三菱会社と、これに対抗した共同運輸会社が、激烈な競争を 展開して、双方疲弊し、官辺の指導庇護により合併し、日本郵船会社が設立された。
これは、大阪商船の創立の翌年、明治18年だった。資本金1100万円。
官辺の指導庇護で合併設立された日本郵船会社と、
大阪財界の民間主導で群小50余の船主を結集した大阪商船会社とは、出発の経緯が 全く異なる。
大阪商船会社に対する翁の功労、このように大なるものあるといえども、報労の少なきは、 会社の基礎いまだ強固ならざるのゆえをもってなり。
しかれども、彼らの心中、ただその目的を遂行するのほか、さらに他念なく、 報酬の多寡はもとより問うところにあらざれば、翁はよろこんでその好意を納受したりという。
その後、翁は日濠貿易に従事し、みずから渡濠せざるべきこととなりしをもって、 明治二十年[1887年]、大阪商船会社重役の職を退きたり。
本文では、 大阪商船の辞任を、明治20年としているが、実際は、明治19年(1886年)2月。
房治郎は42歳(数え)になっていた。

大阪商船は、 1964年(昭和39年)、三井船舶と合併して、大阪商船三井船舶となる。
さらに、1999年(平成11年)にナビックスラインと合併して 商号を株式会社商船三井とする。