大阪毎日新聞の経営

翁は、また、商業のかたわら、新聞経営者たりしことありき。
しかも、無意義にこれに関係せしにあらず。
則ち、新聞紙は文明の利器にして、 政治家に機関新聞の要ありととすれば、実業家また機関新聞なかるべからず。
とは、翁の持論なりしに、たまたま、明治二十一年[1888年]頃故人の岡崎高厚氏らの 経営にかかる大阪日報の経営難を耳にせし。
玉手弘道その他の同志とはかりて、当時これらの実業家の組織せる、同遊会の機関紙として、これを買収せし。
全く、翁の持論を実行せしに他ならず。


本文では、明治21年に、大阪日報を買収としているが、実際は明治20年3月に譲り受けた。 また、譲受けた後、すぐには経営にはタッチしなかった。
3月に買収後、矢野亨氏(後に大阪府立商業学校長)に、経営を委託した。


故人の岡崎高厚氏
=この時点では、まだ故人になっていない。 本書初版の大正3年には、故人になっていたことを指す。
当時の新聞は、現在のように、中立にして大衆一般の視点で書かれたメディアではなかった。 官権の支持または、政界の有力人物を中心にした主義主張の発表メディアだった。
これらの権力に煩わされず、純粋に大阪実業界を基盤とする言論機関設立の声が、 実業家団体「同遊会」により、翁を中心に起こった。
翁は、寺村富栄、桑原深造の2氏と協力して、「大阪日報」を明治20年3月に買収した。 そして、矢野亨氏(後の大阪府立商業学校長)に経営を委託した。
翁は、同年(明治20年)11月から翌年6月まで、事業可能性調査のために第一次渡濠をした。
その間、紙面生彩を欠き、ついに、明治21年6月30日に休刊に追い込まれた。
翁の帰国直後のことだった。
新聞紙条例の規定で50日の休刊は、廃刊扱いとなったので、翁は50日毎に納本用紙を印刷して 命脈をつないだ。
一方、大阪財界有力者間を奔走勧説して、増資をした。河原信可(大阪商船社長)、難波次郎三郎(大阪商船取締役)、 玉手弘道の協力ならびに藤田傳三郎の援助を得た。
明治21年11月20日に、資本金3万円の組合組織をもって、復活した。この時に、題号を 「大阪日報」から「大阪毎日新聞」に改めた。その発行趣意書で、従来の新聞が「政治主義の争軋」にもっぱらであり 実業経済に迂遠であることを指摘し、「不偏中立の実業新聞(ビジネスニュース)」を発行し、 「学説と実験とを応用して商工実業者を誘掖開導すること」を明示した。
翁は、自ら、主幹となり、経営者のかたわら、記者となり、印刷、発送を督励した。
当時、大阪毎日新聞は、東区高麗橋二丁目十五にあったが、明治22年(1889年)2月に、東区大川町55に移転した。
実業を中軸として社会事象を論判しようとする大阪毎日新聞の指向が一般的勢力を得るには、なかなか至らず、 経営の苦難は続いた。
(兼松60年史より)

かくて、買収の約なるや、翁は、その主幹として自らその経営の任にあたりし。
  • 新たに主筆として、柴四朗を、
  • 記者として高山圭三
  • 宮崎三昧(ざんまい)
などを東京より招聘し来たり。
柴四朗
=筆名を東海散史とする小説家、「佳人の奇遇」が代表的作品。
高山圭三
=後に大阪商業会議所副会頭。
宮崎三昧(ざんまい)
=小説家:代表的作品に「かつら姫」。
上田秋成の『雨月物語』を発掘し 世間に紹介した。
これと同時に、題号を「大阪毎日新聞」と改めて発刊したり。
その社屋は高麗橋三丁目 丼池(どぶいけ)(かど)にありたり。
当時、大阪においては、朝日新聞の基礎、既になり、その他にも競争者ありたれば、その経営の困難なりしや知るべきなり。
されば、翁は、毎朝八時出勤し、主幹として事業の経営を担当せるかたわら、記者ともなり、会計係ともなれり。
すなわち、帳簿をひるがえして、ソロバンをはじくかと思えば、 腕車(わんしゃ)*を飛ばして、 新聞材料を取り、帰りて、これを主筆のもとに差し出す。
日々の新聞紙上に物価表*を詳載するにいたりしは、翁の創意なりと記憶す。 *
夜に入れば、印刷工場を巡視して、発送事務を監督し、夜12時、発送のこと、 おわるを()ちて、帰宅することを常とせり。
翁は、かく、日夜悪戦苦闘せりといえども、その経営は依然として困難なりき。
翁の新聞事業に関係せし際は、大阪商船会社、大阪米取引所に重役たりしが、日々親しく、 その業務を()るを要せず、比較的閑散なりしをもって、 もっぱら新聞事業に従事するを得たる。
腕車(わんしゃ)=人力車

物価表=株式や商品相場の価格表

本書の著者、西川文太郎は、この頃、兼松房治郎氏に仕えていたと、本文の「記憶す」から想像できる。
西川は、後に、神戸新聞の記者にもなる。本書は、神戸新聞社印刷部から出版されている。

本文では、大阪毎日新聞の経営時期には、大阪商船会社にも関連していたような記述がある。
実際は、大阪商船会社の重役を辞職してから、大阪毎日新聞の経営に参画している。
一方においては、かねて画策せる日濠貿易会社の機、熟し来たりて、今は一身を新聞事業にゆだねるあたわずなりし。
創業以来の負債一万八千円は、発起人五名におい て、連帯責任をもって年賦返済することとなし、新聞事業は、挙げてこれを本山彦一氏 に譲渡して、全く新聞社との関係を絶てり。
この負債一万八千円は、 鴻池(こうのいけ)銀行*より借用せしものなりしが、 発起人中、死亡または義務を果たすあたわざるものを生じたり。
翁は、この分をも負担返金したりと。

翁の新聞事業を経営せる一年有余に過ぎざれば、いまだその効果を収むるにいたらざりしも、 その経営の上には、翁の特色のよく流露して、さらに遺憾なきを覚ゆ。



鴻池銀行は、1933年に三和銀行と行名を変更


大阪毎日新聞は、1943年(昭和18年)に毎日新聞に紙名を変えた。