日本人・清人の融和を計る

明治二十七、八年における日清戦役、わが帝国の勝利に帰せし。
平和克復後、多くの日数を経るも、わが国人、なお敵愾(てきがい)心に駆られ、 在留清国人を侮蔑すること甚だしき。
途上、清国人を見れば、その何人を問わず、あるいは 豚尾(とんび)()*(のの) しり、あるいはチャンチャン坊主とあざけりし。
彼をして大いに不快を感ぜしめ、交情、にわかに急に復せず。
ひいては、日清貿易の発達を阻害することすくなからざるものあり。
翁、(いた)く、これを憂い、この際、日本人・清国人の親睦を計るを認めし。
故山本亀太郎氏などの有志とはかり、明治三十年十月十六日、神戸市在留の主なる清国商人、数十名を兵庫常磐花壇に招きて、 一大盛宴を張り、一(せき)おおいに歓待を尽くせり。
もって、清国人に非常の快感を与えし、のみならず、これより我が国人の清国人を侮蔑することもようやく薄らぎし。
彼我、交情融和するにしたがい、その取引もまた円滑を見るにいたりたり。
当日、宴会席上にて、有志者の名をもって、賓客に配布したる親睦会の序文は下のごとし。
與   清国大賈親睦宴会序
貴国與我国文物同軏唯隔一葦帯水耳
中古既礼儀相交聘相通交戯不絶者蓋非一日也
輓近我国自執外交政策于国際于通商友誼
特與貴国親厚者其豈偶然哉
我爾来日東貿易歳月旺盛於是乎
我当業者與貴国益厚交期圖両国貿易之拡張運輸之便利者于茲有年矣
幸我神戸港日東之要埠海舶之咽喉
貿易歳月繁盛洵両国之福祉竊為国家賀之夫物盛則有弊隆則有替今也
與諸君同心協力除弊害于未萌期福利于
永遠信義之履然諾相重賛成積年之素懐是僕輩之所以企望而不已也
幸諸君其衷情相親睦以全今日之慶于将来豈不多哉
若其饗礼雖有所未至冀諸君忘其賓礼襟以尽一夕歓娯幸甚
その他、翁は在留支那人のため、公私ともに尽す所のもの少なからず。
また、先年市内有力者とはかりて、東亜協会なるものを設立したるも、東亜人の親睦をはかるとともに、 自他の貿易を隆昌ならしめんとの趣意に他ならざりき。




豚尾(とんび) =清国貴人は、弁髪をしていた。
元々は、清国王朝の出身:満州族の髪型。
弁髪は豚の尻尾に似ていた。

日清貿易の失敗

隣邦支那は彊土(きょうど)広衍(こうえん)蒼生(そうせい)*の繁庶、 亜州*に冠絶し、 世界の大市場として、つとに列国の垂涎(すいぜん)するところたり。
しかるにわが国は一()帯水の地にありて、古来交通の関係、最も厚きにかかわらず、 対支貿易遅々として進まず、列国の競争に対して、 (ちゅう) ()*
しかも両国貿易は、ほとんどまったく本邦居留支那人の経営に任せ、邦人の直接にこれを営む者のはなはだ少なきは慨嘆のいたりなり。
これけだし、彼の地の制度、習慣、その他一般経済事情の錯雑紛糾して、容易にこれを識りがたきによるべし。
といえども、ただ、事情の判明せざるのゆえをもって、すすんでこれが経営にあたるものなくんば、 いずれの時においてか、その志望を達するを得んや
とは、翁が対支貿易に対する持論なりき。

蒼生(そうせい)=人民のこと
亜州=アジアのこと


(ちゅう)()
ひけをとっていること。
点数棒一本ぶん、負けていること

(ちゅう) は、賭け事で使う点数棒のこと。
翁は、実践躬行(きゅうこう)の人にして、決して大言壮語をもって、自ら喜ぶの人にあらず、ゆえに 対支貿易に関する意見のごときも、つとに実行するの意ありき。
しかれども、日濠貿易開始以来数年間は、専心これに従事し、ほとんど他をかえりみるの暇なかりしかど、 当該事業のようやく、その緒につくにおよんで、対支貿易に関する持論を実行せんとの念、禁ずるあたわず。
ついに明治三十三年[1900年]三月にいたりて上海に支店を設置し、 続いて牛荘*にも同じく支店を設置したり。
しかるに、実際、その事業に着手するや、営業上の慣習、 その他経済事情の紛雑なること実に意料(いりょう)のほかにあり。
翁また、時々(じじ)、満州その他商業関係地をくまなく巡歴して、 おおいに研究するところありしといえども、営業がとにかく、意のごとくならじ。
明治三十四年八月にいたり、まづその損失の最も多き上海支店を閉鎖し、以後、北清貿易にのみ従事することとせり。
牛荘(ニュウチャン)
遼寧省の港。
現在の栄口
北清貿易は南清貿易に比すれば、やや有利なりしといえども、しかもその利益は到底その損失を補うに足らじ。
一日継続すれば、一日の損あり。
その営業の持続は、たまたま、 その損失を(かさ)ぬるに過ぎざる。
翁は断然、これが廃止の決心をなし、牛荘支店を閉鎖して、全く日支貿易を廃止したるは明治三十七年[1904年]三月なりき。
後に、翁は人に(むか)って、
予は、予の信ずるところを行いて失敗せるもの、さらに何らの遺憾あるなし。
しかれどもこれがために何物を得たりやといわば、
「数万金を投じ、苦辛惨憺の結果、ようやく日支貿易が容易な事業にあらざるを知り得たるに過ぎぬ」
との一言をもってするのほかなし。
その代償また不廉ならずや
と語りぬ。
(掲者注)
牛荘支店を閉鎖する3年前、明治34年(1901年)は、日本国内の大恐慌により、兼松商店は、最大の危機に陥る。
この閉鎖も、その経営上の判断と思われる。