内地の恐慌と兼松商店の危機

これより先き、明治三十四年[1901年]、わが国において経済界の大恐慌は起こりぬ。
この際、銀行、会社の破産続出し、その光景の惨憺なりしこと、今、なお世人の記憶に新たなるところなり。
この時、兼松商店の基礎、もとより前日のごとく微弱なるものにあらざりしも、 従来、同店に対して無限の信用を与えきたれる某銀行のごとき、この恐慌の発生するや、たちまち、 その融通資金の返戻(へんれい) を請求*しきたれり。
平時ならんにはともかく、この恐慌に際して、一時に多額の取り立てに()う、 その苦痛しるべきのみ。
ここにおいてか、翁は同行に対し、事情を述べて寛大なる処置に出でんことを請うといえども、彼れ、頑としてこれに応ぜず。
この時における兼松商店の運命は、実に累卵(るいらん)の危うきがごとし。
しかるにヘルミーズの神は、この前途ある兼松商店を殺すに忍びざりけん、はからずも、一つの救済者をくだせり。
その救済者とは誰ぞ。
横浜正金銀行、是れなり。

[ 某銀行による融通資金の返戻(へんれい)を請求」 は、
現在言葉の「貸しはがし」に相当する。



累卵(るいらん)の危うきがごとし
積み重ねてある卵。
ちょっとでも触ると割れる。


ヘルミーズの神
=ギリシャ神話での商業の神。ローマ神話ではマーキュリー。

正金の援助を得て復活す

当時、横浜正金銀行は兼松商店と、深き取引関係ありたるにあらざるも、 翁は神戸支店の支配人たる 山川勇木氏(現在、同銀行総支配人)の人格に信頼したりしをもって、 その今日(こんにち)にいたれる事情を述べ、詳細なる財産目録を提示して、救済を求めたり。
山川氏はその窮状を聞きて、同情に堪えず、密かにおもえらく、
「今、何人かこれを救済するに(あら)ずんば、いきおい、兼松商店の破産となる。
ひいては 折角曙光(しょこう)を認めつつある日濠貿易の挫折となるべし。
果たしてしからば、 (ただ)に兼松商店の不幸のみにとどまらず、国家の不利また大なるものあらん」
と。
すなわち答うるに、その財産状態調査の上、救済の策を講ずるべきをもってせり。
翁はその厚意に感激し、ただちにその店舗、家屋、その他、財産の全部を挙げて、同行に提供せし。


横浜正金銀行は、
東京銀行の前身。
現在は、三菱東京UFJ銀行。
これと同時に諏訪山*なる邸宅を引き払いて、 敏馬(みねめ)*の一小屋に移り住み、おもむろにその回答を待てり。
山川氏はその提供されたる財産目録を精査したるに、財産上、いささかの疑点あるなく、 救済の余地充分なるを認めて、いよいよ兼松商店救済の決意をなし、今後、商業上に対し、 可能的の便宜を与うることとして、その旨を翁に伝えたり。
ここにおいて、一時、危殆(きたい)(ひん)せし兼松商店も、再び蘇生し、日濠貿易を継続することとなりぬ。
従来もっぱら、取引せる某銀行の無情なるに反し、さほど深き関係なき横浜正金銀行の援助をえて、 その事業を継続し得たるもの、ひとえに山川氏の義侠の(たまもの)なりとて、 翁は終生感謝して()かざりき
翁は山川氏に救済され、濠州貿易は継続することとなりたるも、その身を持することを薄くし、依然として窮迫の生活を続けし。
諏訪山の邸宅を外人に賃貸し、その得るところのものは、ことごとく借金の支払いにあて、いささかも浪費することなし。
諏訪山の旧宅に復帰せしは、四年後のことに属せり。
かくのごとくして、明治三十四年[1901年]における内地の恐慌は無事に経過したるも、 その後いくばくならずして、濠州に干ばつありき。
牛羊の斃死(へいし)するもの一千万と称せられ、 これがため、多少打撃をこうむりたりき。
しかれども、幸いにこの凶事は、予想ほどに大事に到らずして通過したり。
このほか、日清貿易のために損失するところありといえども、もとより業務上に影響するほどのものにあらじ。
諏訪山 =神戸市中央区の地名

敏馬(みねめ) =神戸市灘区の地名

諏訪山の屋敷(百松園)は、某外人に貸し、その家賃は、横浜正金銀行への 借金返済の一部とした。
爾後(じご)においては、兼松商店の業務は、すこぶる順調にして、 いささかの蹉跌(さてつ)*なく、 逐日(ちくじつ)、社運隆々として、 今日(こんにち)の盛を致しぬ。
蹉跌(さてつ)
=つまずき
以下、妹尾一巳氏作成の年表から転載。
1900明治33年56歳3月、上海に支店を設置。続いて牛荘(遼寧省の港)にも支店を置く。
4月、『貿易調査会』を設立。以後、貿易事務の発展に関し、時々、意見を当局に具申。
健康を害し、終年静養
東京株式市場大暴落。
各地に金融恐慌起きる
1901明治34年57歳わが国経済界の大恐慌により、 兼松商店危機に陥るも、横浜正金銀行の援助で回復
蚕糸部の廃止、店の総人員4割を減らす。
留職者には臨時減給。
8月、上海支店を閉鎖、 シドニー小売店の閉鎖、
(秋)房治郎自ら、北支那を視察
山陽線全通。
オーストラリア連邦成立
1902明治35年58歳第7次渡濠。 日英攻守同盟を締結
1903明治36年59歳

1904明治37年60歳3月、牛荘を閉鎖。日清貿易を廃止。濠州貿易に専念す。
6月、神戸市の名誉市参事会員に就任、市政に貢献す。
日露戦争始まる
1905明治38年61歳第8次渡濠。
明治34年の恐慌以来、仮住まい中のところ、ようやく 諏訪山邸に復帰
旅順陥落。奉天会戦。日本海海戦。日露講和条約をポーツマスで締結
1906明治39年62歳1月、『従業員に持株を分与する協定書』を作成
(秋)大患を病み。床につく
郵便貯金法公布
国際無線電信条約に調印
1907明治40年63歳療養
1908明治41年64歳3月、勲六等の叙勲を受く。
1909明治42年65歳(春)先年来の大患の床をはらう。
新店舗、日濠館を、神戸海岸通りに起工
伊藤博文、ハルピンで殺される。三井銀行、株式会社に改組。