兼松翁は、明治38年(1905年)、数え年61歳の年の8月から12月にかけて、最後の渡濠(8回目)をした。 その10月8日に、Talma写真館 (George Street, Sydney)で、この写真を写した。
腰掛けたのと立ったのと 二種類写したが、この画像の方が気に入った様子で、いつしか翁の代表的写真となった。
F.Kanematsu のサインが入っている。
Norman Carterというオーストラリアの画家が画いた翁の肖像画が、神戸大学内の兼松記念館に蔵せられているが、 それは、翁の没後、この写真を参考にして描かれたものである。(兼松60年史より)

株を店員に分配す

その会社たると、己人(こじん)商店たるとを問わず、 いやしくも多数の力によりて、事業を経営するものは、その部下を優遇することは、当然のことにして、 何ら異とするに足らずといえども、翁のごときは稀にみるところなり。
その年々の利益配当のごとき、まず総利益を三分して、その一を積立金にあて、その残余をまた三分して、 自己はその一を取り、三分の二を店員の賞与金として分配せるがごとき、その一例なり。
しかれども、これをもって店員をして安んじて、事をとらしむるの道にあらずとなし、商店に功労あるものに対しては、 その資本をわかち与えて合資会社に改めん。
とは、翁の宿志にして、近く、これが実行を見んとするにあたりて、 不幸、他界の人となりしなりき。
店員は、その幹部か否とに論なく、すべて、翁の知遇に感激するもの、組織のいかんは、もとより、 その問うところにあらずといえども、組織の変更*は翁の理想にして、 しかもその準備は既になれるをもって、翁が百日祭の日をもって、公然、組織の変更を発表し。
以後、店員は益々奮励努力、業に当たれるをもって、翁の没後といえども、その営業上いささかの異動なきのみならず、 業務は一層隆盛におもむきつつあるを見る。
翁、もって、地下に(めい) すべし。
合資会社
=有限責任株主と、無限責任株主を株主とする会社。
明治末から大正にかけて、合資会社設立ブームがあった。

組織の変更
=匿名組合から合資会社への変更
下欄参照

兼松房治郎の死後、兼松商店の株は世襲されず、店員に分かち与えられた。

兼松房治郎商店の従業員持株制度

兼松商店の従業員持株制度は、その規模および本格性で、他を抜いた制度だった。
明星大学経営学部の井上真由美助教授は、大正、昭和前期の兼松商店の従業員持株制度を 研究された。以下、井上助教授からお聞きした事項を開陳します。
  • 無償譲渡
    株式は無償で店員に譲渡された。
    現在なら、課税対象になるが、当時は非課税だった。
  • 内容の本格性
    兼松商店の以前に、三井銀行と丸善で、幹部に株譲渡の例があった。 但し、これらは賞与と似た内容で、経営権の委嘱まで、踏み込んではいなかった。

兼松房治郎は、逝去6年前の明治39年(1906年)1月1日に、「店員に持分を分与する協定書」 という契約を幹部店員に開示した。ただし、この年では、合資会社登記の条件を満たすほど 資本金がなく、実現は後年に持ち越された。(この年の資本金は8万円)
この契約では、株の無償譲渡の替りに、
  • 店に対して、不利益をなした場合、または、仕事成果が不充分な場合は、株を没収する
  • 店を辞めるまでは、株の売却は禁じる。
などの内容が詳細に記されていた。
株式譲渡は、賞与的性格ではなく、経営の委嘱の意味が強かったことがわかる。
房治郎は、兼松商店は公のものであり、兼松家のものでないという持論を持っていた。
兼松房治郎は、逝去半年前の明治45年8月19日付で、兼松商店の業態を個人会社から匿名組合に移行させた。 この時点で、株式の半分を幹部店員に無償譲渡した。
営業者兼松房治郎持分100,000円
匿名組合員兼松夫人
店員北村以下18名
47,300円
152,700円
資本金合計300,000円
だった。
兼松房治郎の遺書に従い、逝去100日後の大正2年5月16日を期して、 匿名組合から合資会社に移行した。
合資会社の資本金は、そのまま30万円とし、兼松馨(養子)、北村、古立、前田、入江、四方、藤井の6店員が無限責任株主となり、 有限責任株主は、兼松未亡人と、その縁故者1名の他に、勤務満3年以上におよぶ店員12名で、総株主は21名で出発した。 (株譲渡先は、幹部店員だけで、丁稚や小僧には、分配されなかった) この移行は、兼松房治郎が周到な用意をしておいた賜物だった。
大正7年に、株式会社に関する法律が改正され、株式会社の方が税制上有利になり、兼松商店も同年、株式会社に移行した。 兼松馨氏は、その際、持株を譲渡した。ここで、兼松株式会社は、兼松家から完全に独立し、幹部店員が株主となる業態となった。