丁稚房公の記念建物

兼松商店の営業が漸次隆昌におもむくにしたがいて、店舗改築の必要起こり、 海岸通三丁目なる在来の箇所に、石造三階建の店舗を新築せり。
もとより、輪奐(りんかん)の美はあらざるも、 その堂々たる雄姿は、港頭を圧するものありて、神戸港湾に一光彩を添えぬ。
これをなづけて、「日濠館」と称す。
設計その他一切の工事は、河合工学士の督するとこ ろなりといえども、だいたいの設計は、翁のみずから案出せしところに係かわりし。
その構造は最新式にして、注意の周密なること、稀に見る所のものとす。
翁、常に人に語りて曰く、
「この建築は自分に取りては、不相応にして、いささか分に過ぎたるといえども、 丁稚の房公だにも、かかる建築をなしえるものなることを示せば、また青年奮起の一助たるなからんや」と。
日濠館は、明治44年8月竣工、8月30日に、仮事務所から引越、9月19日に盛大な落成式を行った。
昭和20年3月17日の神戸空襲を受ける前は、コーニス(壁に水平に付いた横方向の装飾部材)の上には巨大なペディメント (上部の壁に付ける三角形の装飾)が載せられていた。
ペディメントに、兼松商店の荷印(ロゴ)の、K in Diamond が見られる。

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海岸ビルヂングとビル名を変え、2003年7月1日に、国の登録有形文化財に 指定された。

叙勲の沙汰

翁は、常に国家民心のために、自己の奮闘努力を致すを楽しむの風あり。
ゆえに社会 事業に尽力するも、決してその報酬をもとめるの意なし。
いわんや、自己終生の事業とせる、濠州貿易においてをや。
現に、服部兵庫県知事のごとく、翁の社会事業に対し、また濠州貿易に対し、 功労の没すべからざるものあるをもって、叙勲の奏請をなさんとして、 翁の履歴を(ちょう)す。
しかるに、その提出せる履歴書なるもの、簡単にして法式にそわず、再三返付して訂正を促せりといえども、翁は、
「予、いまだ何らの功労なし。仮にこれありとするも、自らその功労を書き立つるごときは、予の欲せざるところなり」とて、これに応ぜず。
ために、叙勲の詮議(せんぎ)なくして経過したるが、明治四十年[1907年]の大患に際し、その 再起測るべからざるを見るや、知事は家族に対し、急遽、履歴書を提出せんことを(もと) む。
親近者、凝議して、叙勲のこと、もとより翁の意志にそわざるべしといえども、しかも家門 の栄なり。
また知事の厚意を無にするは礼にあらずとして、履歴書調整のことに決し、 これを提出したり。
()って明治四十一年[1908年]三月十六日、勲六等を拝受するにいたりぬ。
もって、翁の 心地の高潔なるを知るべきなり。

功成りて遠く逝く

前にも記するごとく、翁は壮時にありては、とかく多病なりしかど、三十七、八歳の頃より 身体強健となり、明治二十年[1887年]日濠貿易計画以来、 明治三十八年[1905年]にいたるまで、翁の渡濠せしこと、七回の多きにおよべり。
しかるに、明治三十八年[1905年]末、濠州より帰朝後は、健康常ならざるなり。
翌年十月にいたりて、肝臓結石を発見し、十二月は大患となる。
明治四十年[1907年]には痼疾(こしつ)の肺気腫症に座骨神経痛を併発せし。
一時は、回復の望み薄かりしも、明治四十二年[1909年]にいたり、 ようやく(やまい)怠りて、床をはらうにいたりぬ。
この間、実に三カ年有余。
「翁が老年の身をもって、よくこの長年月病魔と闘いて、ついにこれに打ち勝ちえたる は、全く幼時より悪戦苦闘して、その身体を鍛錬し来たりたると、その気性の剛毅なりし がために他ならず、このごときは到底、尋常人の堪うるところにあらず。」
とは、主治医の大国医学士の語るところなり。 しかも、以後、健康、旧のごとくならず、常に薬餌(やくじ)に親しめり。
明治四十五年[1912年]一月、風邪をおかして集会に臨み、気管支炎より肺炎に変じ、一時危篤を伝えられし。



「翁の渡濠せしこと、七回の多きにおよべり」
実際は、8回渡濠した。
幸いにして病少しく怠りしをもって、一同、愁眉を開きたりしに、昨年*大正二年[1913年] 一月二十五日以来、風邪悪寒発熱ありて、性来の肺気腫に気管支炎を加えたり。
さらに、腎臓炎[明治三十一年に急性腎臓炎に罹りしことあり]のために、尿量減少し、水腫をきたして尿毒症を発せし。
昨年
=本書初版は、兼松房治郎死亡の翌年に出版された。そこで、「昨年」の表記がある。
二月六日、病(あらた)まり、ついに六十九歳をもって、 白玉楼中の人となりぬ
(ああ)(かなし)(かな)
白玉楼中の人となる
貴人が死ぬこと。
天には、白玉楼という立派な建物があり、これに入る資格を得た。
唐の文人、季賀の臨終に天の使いが来て、「天帝の白玉楼成る。君を召して、その記を作らしむ」と告げた故事。
文典:書言故事
大正2年元旦の手蹟。この年の2月6日に逝去

房治郎の雅号は、百松翁(ひゃくしょうおう)
以下、「兼松60年史」より、抜粋。シドニー支店の支配人代理を経て、東京支店長となった前田卯之助氏が書かれた。
  • 1912年(明治45年=大正元年) 2月
    兼松房治郎は肺炎に罹るが、回復。
  • 4月
    濠州から4年振りに帰国した北村氏を伴い、夫人とともに、城崎の湯に遊ぶ。店内に顔を出すこともあり、夫人を連れての第9次渡濠をする意図があることの話などもした。
  • 7月29日
    明治天皇崩御。翌30日に大正に改元。 明治45年は、大正元年になる。
  • 8月19日
    兼松商店の業態を個人会社から匿名組合に移行させた。北村以下、幹部店員18名に、株式の半分を無償譲渡。
  • 12月末の決算
    兼松商店は、創業以来の好成績に恵まれた。匿名組合の初配当は7%だった。また、店員各人には、未曾有の高額の賞与が与えられた。 賞与の総額が給与年額よりもまだ25%も多かったほどで、一同、思いがけぬ嬉しい迎年をした。これが兼松房治郎からの最後の恩賞に なるとは誰ひとり思いもよらなかった。
  • 1913年(大正2年)元旦
    明治天皇崩御後、5ヶ月後とはいえ、店員一同が、兼松房治郎邸に集まって、大正の新時代の店業の幸先を祈った。一同でシャンペンの杯が上げられた のも珍しいことであった。また、上掲の書(楽琴書)を認めた。
  • 七草を過ぎると
    兼松房治郎は、新しい筆を取り寄せ一室に籠もり、遺言書の更新に着手した。約10日を費やして、書き終わった。 この遺言書が、逝去後100日目の合資会社への円滑な移行をもたらす
  • 1月20日
    シドニー支店の北村支配人、東京支店の前田支店長など幹部社員、旧友などに約20通の書簡を認めた。
    店員に宛てたものは、大正の新時代に適応するべき経綸を論じ、また店内後進の者への指導に触れ、常に変わらぬ気魄の中にも 温情あふれる内容だった。
  • 1月23日
    寒風身に沁む諏訪山を下って、日濠館(兼松本店)を訪れた。新しい遺言書を金庫に納めさせ、上記の20通の書簡を郵送せしめた。 店内を一巡して、微笑のうちに帰邸した。
  • 1月25日
    来客と囲碁中に発熱して、床に伏した。この頃は、誰一人、万一のことを考えなかった。
  • 2月5日
    朝からうつらうつらとされる
  • 2月6日午前零時30分
    心臓麻痺を起こして永眠。
    古立(神戸本店支配人)と前田卯之助(東京支店長)は、別室に居て雑談をしていて、これに気づかず、慌てて廊下を伝って、枕元に馳せつけた。
  • 2月9日
    店葬。
    棺の側には、古参店員は白丁を着て、侍した。
  • 3月18日
    シドニーの北村支配人が、この日、神戸港着の船で馳せ着けた。
  • 5月16日
    株式の殆どを幹部店員に移して、兼松商店は合資会社へ移行