丁稚房公の記念建物兼松商店の営業が漸次隆昌におもむくにしたがいて、店舗改築の必要起こり、 海岸通三丁目なる在来の箇所に、石造三階建の店舗を新築せり。もとより、 これをなづけて、「日濠館」と称す。 設計その他一切の工事は、河合工学士の督するとこ ろなりといえども、だいたいの設計は、翁のみずから案出せしところに係かわりし。 その構造は最新式にして、注意の周密なること、稀に見る所のものとす。 翁、常に人に語りて曰く、
「この建築は自分に取りては、不相応にして、いささか分に過ぎたるといえども、
丁稚の房公だにも、かかる建築をなしえるものなることを示せば、また青年奮起の一助たるなからんや」と。
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叙勲の沙汰翁は、常に国家民心のために、自己の奮闘努力を致すを楽しむの風あり。ゆえに社会 事業に尽力するも、決してその報酬をもとめるの意なし。 いわんや、自己終生の事業とせる、濠州貿易においてをや。 現に、服部兵庫県知事のごとく、翁の社会事業に対し、また濠州貿易に対し、 功労の没すべからざるものあるをもって、叙勲の奏請をなさんとして、 翁の履歴を しかるに、その提出せる履歴書なるもの、簡単にして法式にそわず、再三返付して訂正を促せりといえども、翁は、 「予、いまだ何らの功労なし。仮にこれありとするも、自らその功労を書き立つるごときは、予の欲せざるところなり」とて、これに応ぜず。 ために、叙勲の 親近者、凝議して、叙勲のこと、もとより翁の意志にそわざるべしといえども、しかも家門 の栄なり。 また知事の厚意を無にするは礼にあらずとして、履歴書調整のことに決し、 これを提出したり。 もって、翁の 心地の高潔なるを知るべきなり。 | |
功成りて遠く逝く前にも記するごとく、翁は壮時にありては、とかく多病なりしかど、三十七、八歳の頃より 身体強健となり、明治二十年[1887年]日濠貿易計画以来、 明治三十八年[1905年]にいたるまで、翁の渡濠せしこと、七回の多きにおよべり。しかるに、明治三十八年[1905年]末、濠州より帰朝後は、健康常ならざるなり。 翌年十月にいたりて、肝臓結石を発見し、十二月は大患となる。 明治四十年[1907年]には 一時は、回復の望み薄かりしも、明治四十二年[1909年]にいたり、 ようやく この間、実に三カ年有余。
「翁が老年の身をもって、よくこの長年月病魔と闘いて、ついにこれに打ち勝ちえたる
は、全く幼時より悪戦苦闘して、その身体を鍛錬し来たりたると、その気性の剛毅なりし
がために他ならず、このごときは到底、尋常人の堪うるところにあらず。」
とは、主治医の大国医学士の語るところなり。
しかも、以後、健康、旧のごとくならず、常に明治四十五年[1912年]一月、風邪をおかして集会に臨み、気管支炎より肺炎に変じ、一時危篤を伝えられし。 | 「翁の渡濠せしこと、七回の多きにおよべり」 実際は、8回渡濠した。 |
幸いにして病少しく怠りしをもって、一同、愁眉を開きたりしに、昨年*大正二年[1913年]
一月二十五日以来、風邪悪寒発熱ありて、性来の肺気腫に気管支炎を加えたり。 さらに、腎臓炎[明治三十一年に急性腎臓炎に罹りしことあり]のために、尿量減少し、水腫をきたして尿毒症を発せし。 |
昨年 =本書初版は、兼松房治郎死亡の翌年に出版された。そこで、「昨年」の表記がある。 |
二月六日、病 |
白玉楼中の人となる = 貴人が死ぬこと。 天には、白玉楼という立派な建物があり、これに入る資格を得た。 唐の文人、季賀の臨終に天の使いが来て、「天帝の白玉楼成る。君を召して、その記を作らしむ」と告げた故事。 文典:書言故事 |
房治郎の雅号は、 |
以下、「兼松60年史」より、抜粋。シドニー支店の支配人代理を経て、東京支店長となった前田卯之助氏が書かれた。
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