再度の渡濠

翁と北村氏の関係

かくて日濠貿易開始の準備もほぼ整い、いよいよ出発の期迫りたれば、翁は五千金を 妻に分かち与えて、云えらく、
「われ、今、知己友人らの忠言をしりぞけて、彼の地に向かう。
その成否、あらかじめ知 る所にあらずといえども、しかれども、生きておれば、その成功、決して期せられざるに あらず。
今、汝に別るるに臨んでこの金をあたう。もとより充分なりとはいうべからざるも、贅沢さ えなさずんば、幾年かを支えんことあえて難きにあらず。
とにかく、わが帰朝せん日を待つべし」と。
翁はこのひと言を残して、明治二十三年[1890年]一月十四日、汽船サイナン号に搭じ、 いよいよ遠征の徒に上りぬ
この時、翁の一行は北村氏とただ二人なりき。
北村氏は京都の薬種商の子息なり。
幼にして父を喪い、年十八、某氏の保護の下に(はじめ)めて香港に渡る。
支那商人中に伍して、実地に商業の見習いをなしつつありき。
氏が初めて翁に(まみ)えし は香港在留の際にして、実に翁の最初の濠州視察の途上、偶然、香港において相会 したりしなり。
しかるに、一見、旧知のごとく肝胆相照らし、翁が濠州視察を終えて帰朝せし後、北村 氏も続いて帰朝せり。
同氏は、本来、インド貿易に従事せん志望なりしも、翁の切なる 勧告により、その素志をひるがえして、翁とその事業を共にすることとなり、以後二十幾 年間、兼松商店のために尽力せるなりき。


夫人は、この5,000円を費消せず、翁の留守中、店の経理などで働いた。
後に、明治28年(1895年)に、 この5,000円は資本金に繰り込み、兼松商店の資本は15,000円となった。

船中において五箇条を誓約す

ある日、翁は船中において、北村氏に向かって曰く、 「予も縁ありて汝と事業を共にすることとなれり、しこうして、その成否はひとつに予と汝 との決心如何(いかん)にあって存す。
ついては予は今、左の条件を提出せんとす。
  1. 彼の地に渡りて三年間は茶を飲むべからず[水をもって、これにあつるの意]
  2. 食事は、三度とも洋食一品たるべし。
  3. 乗車するを許さず[すべて徒歩するの意]
  4. 衣服は事務所においては仕事着と着替えるべし
  5. 仲仕同様の働きを甘んじ、やむを得ざる場合のほか、沖仕をやとうべからず。
この五箇条を三カ年間実行しうるや否や。
予はすでに決心せり。しかれども、難きを人に強うるは、予の欲せざるところなり。
熟考 してその諾否を答うべし」と。
翁の提案に対して、彼は沈思黙考すること、ややしばらくにして、心大いに決するところあり
「諾。貴命のごとく実行するべし」
との快答を与えたり。
この決心こそ、実に成功を形造りし基なりしなれ。
しかり、一時の決心は何人もよくしあたうところなりといえども、 これを永遠に実行する者はほとんど稀なり。
しかも、翁らはこの決心を三カ年の久しき、持続してさらに(かわ)らざりき。
もって翁らの忍耐力の絶倫なるを証すると同時に、その成功の偶然ならざるを知るべし。
翁の第二次渡濠、北村氏の最初の渡濠のこの年、1890年、 翁は46歳、北村氏は25歳だった。

渡濠後の困難

さても、翁の一行は濠州シドニーに着するや、ただちに某所に下宿し、明治二十三年 四月とりあえずクラレンス街に店舗を開きたり。
現在のオッコンネル街の店舗に移りしは 約二年後(明治二十五年九月)にして、最初の店舗はすこぶる矮小なるものにてありき。
かくて、店舗は開かれ、日濠貿易商の看板は掲げられたりといえども、元来、 海外貿易の事業にはなんら経験なきが上に、彼の地における商状をつまびらかにせざるがゆ え、最初はほとんど手をくださんすべを知らず。
いわゆる暗中模索の感ありき。
翁らの困難はこれのみにとどまらず。
これより先、本邦商人にして彼の地に渡航せしもの二、三ありしといえども、 いずれも博覧会見物、あるいは雑貨商の類にして、純然たる商人の取引に従事せるものなし。
ただ、わが国の居留地の外人商の中で、ハンター商会が日本米を、デアス商会が雑貨を濠州に輸出なしつつありし他、 同国より日本への輸入は皆無なりしをもって、当時、在濠外人の日本商人に対する信用はまことに零なりき。
(ただし、千住製絨所が、原料羊毛の少数を外人の手を経て、大倉組の取り扱いし事実ありし)
しかれども、翁らはかねて期したることなれば、いささかもこれに屈することなかりし。
異常の努力をもってこれにあたりたれば、漸(ぜん)をおうて、おぼろげながら彼の地の事情に通 じなりき。
それと同時に、最初は翁らを従来渡航せし日本商人と同じく、侮蔑の眼をもって視たりし外人も、その営業ぶりの誠実にして、 ほかの日本商人と、その撰を異にせるものある を見て、ようやく信用をおくこととなり。
従って、取引上においても、おおいに便宜をえるにいたれり。


クラレンス街99番地
= 99 Clarence Street, Sydney NSW
に支店を開設したのは、
明治23年(1890年)4月。
翁が46歳。


オッコンネル街
= O'Connell Street, Sydney NSW







羊毛などの第一回輸入は、明治23年(1890年)4月。
外人商社を通さず、日本人による日濠直貿易の第一号。
外人商社を通さず、日本人による日濠直貿易は、兼松により、明治23年(1890年)に 開始された。
2月翁と北村氏のシドニー着
4月牛脂29樽、生牛皮321枚のシドニー積出
5月洗上羊毛187俵(大阪毛糸紡績会社宛て)のシドニー積出
6月羊皮、羊革皮、牛革、馬具、バーク(肥料)のシドニー積出
翁のみ帰国。8月15日に神戸着
日本から濠州への輸出は、陶器、漆器、竹器、その他東洋趣味の雑貨類を、この年(1890年)に8回の船便で行われた。
(兼松60年史より)

羊毛輸入の最初の納入先が破綻

しかれども、前にも記するごとく、何分、いまだ経験に乏しきこととて、万事、意のごとく ならず。
ことに最初の渡航の際、羊毛の買い入れ注文を託されし、大阪毛糸紡績会社 の破綻するあり。
その他、輸入牛皮の手違いなどによれる損失も少なからざりしをもって、開業以来三、 四年間は、おおむね、毎期決算は損勘定に帰し、すこぶる窮苦困難の境遇にありし。
最初の187俵の羊毛の納入先が、大阪毛糸紡績会社。 この、売掛代金は、未回収か回収困難になった。

日本の毛織技術がまだ低かった。低級羊毛を使っての絨毯程度しか織れなかった。
兼松の初回輸入は、高級羊毛。これを高級織物にする技術は日本になかった。
その後、日本の毛織技術は急速に向上した。
Sydney Wool & Stock Journal (1913年3月7日)を参照。

「兼松の羊毛輸入開始は、時期が早すぎた。しかし、兼松の輸入開始で 日本の毛織技術は急速に向上したので、呼び水効果があった」と 掲者は思う。
明治19年頃から日本では起業熱が勃興、明治22年の春には最高潮に達した。 しかし、世界的銀塊相場の高騰が事実上の銀貨国である日本の貿易を逆潮に陥れ、 明治23年には、金融恐慌を来した。翁が日濠貿易を開始をした年である。
日本銀行が限外発行を断行して破局を収集するに至って、破局は沈静化した。 それから、2、3年の間、商況は沈衰を続け、日清戦争の前年である明治26年になって はじめて回復の兆しを示した。
兼松商店は創業早々で抵抗面が少なかったので、業績不振ながら、致命的打撃は受けなかった。
明治24年(1891年)12月には、店舗を神戸市栄町3丁目31番地に移した。店舗建坪15坪、倉庫2棟33坪で やや手広になった。家賃は25円だった。
この頃の年商は、5万~7万円。輸出輸入は、ほぼ、均衡していた。
創業に際し受けた出資金は、明治24年(1891年)に借入金に書き換え、総額は2万円となっていた。 (兼松60年史より)