(掲者注) 羊毛だけの扱い量に限れば、兼松商店の創業当初の推移は下記の通り。 羊毛の刈り取りと出荷にはシーズンがあり、北半球の秋から春がそれにあたる。 従って、年度表示が、2年にまたがる。
折も折とて、濠州経済界の大恐慌は来たれり。 翁が生涯に遭遇したる幾多の困難中、 最も痛苦を感じたるは、実にこの |
兼松房治郎の死後に寄せられた追憶の記で、
廣瀬満正氏は、下記のように書いている。 「元来、翁が日濠貿易を企てたる目的は、輸入よりも輸出に重きを置きたりし、・・・」 従って、創業時、日本から濠州に輸出した商品(米穀および雑貨品)があり、濠州客先に対する売り掛け金が あった。 なお、廣瀬満正氏は、 住友家初代総理事を勤めた廣瀬宰平氏の長男。廣瀬宰平氏は、日濠貿易を開始する兼松房治郎に一万円を投資した。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
濠州の大恐慌1893年[明治二十六年]における濠州経済界の大恐慌は実に非常なるものなりき。小資本の銀行、会社もしくは商店はいうもさらなり。 幾千万の資本を有し、幾百万の積立金を擁して、昨日までは いうまでもなく、翁もまたその渦中に巻き込まれたる一人なり。 取引先には少なからぬ 売掛代金ありといえども、かかる状態なれば、これを回収し しかるに、一方取引銀行よりは、その貸し金の返済をせまり来たること頻りなり。 さりとて、 この混雑中、売るべき貨物はありといえども、これを買わんとするものなし。 また商店の信用をもって、金の融通を求めんとするも、さらにこれに応ずるものなし。 こ こにおいて、金融の途は、はたととまりて、いかんともするあたわざるにいたりぬ。 | =建築の宏大、壮麗なこと。 「輪」は曲折して高大の意味。 「奐」は大きく盛んの 意味。 シドニー支店は、日本からの米、雑貨などの在庫を擁して換金できず、荷為替期日が迫っていた。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
兼松商店の窮迫しかるに、恐慌の区域は拡大を加え、倒産者また、ますます、その数を増し来たるのみ にて、兼松商店の運命も今やこの時、翁らは百方策尽きて、絶望のあまり、ブランデー、ウィスキーのごとき火酒の力を借り、 しいてその苦悶を 翁らが千辛万苦、ようやくにして開かんとせる濠州貿易の 思い、ここに到れば、さすがの翁もうたた断腸の思いあり。 身は寝台に横たわるといえども、 転々 しかれども、翁の剛毅勇敢なる、いつまでもかくてあるべき。 決然としてひとつの活路を開くべく、 かねて取引ある某銀行に赴き、支配人にその事情を述べて、手形の延期を請えり。 この時に際して翁のとるべき策は、ただこの一事ありしのみ。 |
=滅亡が明日の 兼松房治郎の死後に寄せた追憶の記で、神田兵右衛門氏は、下記のように書いてある。 「翁は、酒を飲まざりしが、義太夫、端唄その他凡て音曲を好み・・・」 酒を飲まない房治郎も、この時は、ブランデー、ウィスキーに頼ったと思われる。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
翁は曰く、
日濠貿易は、いまだ隆盛の域に達するを得ずといえども、その今日あるを致したる
は、不肖、房治郎の微力あずかりて力あるを信ず。
この翁の請求に対する支配人の「イエス、ノー」の答辞こそ、実に兼松商店の興廃の予がこの事業を開始してよりここに幾年、常に、一意専心、不屈不 しかるに今や大恐慌に際し、この手形を期日に支払わざるべからずとせば、兼松商 店は遺憾ながら閉店するのほかなし。 果たして されど、 この時、翁の吐ける言々句々、ことごとく 支配人の黙して、翁の愁訴を傾聴したりしが、実に熱心は雄弁なり。 その言辞の悲 愴沈痛なる、彼の志を動かしけん。 ややあって、彼は口を開いて曰く、 「諾。期日の猶予を与えうべし」と。 この答辞を聴きし時の翁の心中、果たして如何。 手の舞い、足の踏むところを知らざり き。 後日、翁は、当時のことを追懐して曰く
「予が彼の時、支配人に談判せしは、大なる覚悟を有せしは勿論なり。
これ、つまるところ、その決心の異常なりしがためにして、かくのごとくその決心の大なり
しだけ、その喜びもまた非常なるや言を有り しかも予のごとき、覚束なき英語をもってして、容易にその精神が彼に徹底せんとは予 期せざる所なりし。 しかるに、彼がごとく速やかに承諾を得たるには、むしろ案外の思いをなせり。 この恐慌の際における予が苦痛と喜悦とは、今日にいたるまで、 この時における翁らの困難の状、想うべきなり。 |
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窮境を脱してひとまず帰朝す
中にはあまりのことに涙を 最初、翁が日濠貿易を開始せる際、これを されど、翁の気質を熟知せる彼らは、協議の上、 「今、忠言を繰り返すも、さりとて、ただちに意志をひるがえすべき彼にあらず。
よろしく、彼みずから後悔するの時を とて、しばらく放棄し置くこととなしぬ。翁といえども決して友人の真情を 濠州において恐慌のために受けたる打撃は尋常ならざるものあり。 しかも、ひとりの後援者も居ないし、内心の痛苦、真に堪えがたきものありしならんといえども、翁の意志の牢固たる、 鉄石も かかる大困難に遭遇するも、いささかも逡巡するなく、その失敗はかえって実験素養の資となり、 以後、その経営よろしきをえて、着々、その歩を成功の域に進むるにいたれり。 | この時、オーストラリアは、 イギリスの植民地。 従って、英本国政府の措置云々の表現になる。 自治領となるのは1901年。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
最初、200俵から始めた、濠州から日本への羊毛の輸出(日本にとっては輸入)も、明治44年には、25,000俵を越えるようになった。 当初は、兼松商店だけが輸入をしていたが、後年、他の商社も参加し始めた。 但し、神戸大学の資料では、明治44年でも兼松の輸入量は全体の64%となっていた。 兼松商店の成功度合いが、実感できる。 兼松房治郎は、オーストラリアに渡ること、終生で合計8回 | 房治郎と共に、渡濠した北村寅之助は、その後、シドニー支店長として駐在を続けた。その生涯をシドニーに過ごしたと思われる。 また、1916年(大正5年)に、ローソンの町に吉野桜を寄付したらしい。これは日濠の草の根交流の原点といわれる。 2008年5月に、北村寅之助の子孫のミッキー北村氏が、再度、植樹をした。 その記念の写真を参照ください。 |