本書は、昭和45年になって、妹尾一巳氏によって、第4版が出版された。
妹尾一巳氏は、独自の調査により、年表を追加している。
以下、兼松房治郎の第4次渡濠時の経営危機の後の事跡を、この年表から転記する。
また、明治33年に新卒入店した前田卯之助が、大正になって記した記録も、挿入した。
1893明治26年49歳濠州に大恐慌おこり、兼松商店も破産の危機に瀕す 三菱合資会社の設立
1894明治27年50歳2月、破産の危機を脱したので、後事を北村氏に託して帰国
4月に海岸通り3丁目2番地の土地建物を購入。5月末に栄町3丁目から移転した。 敷地240坪、事務所2階建78坪、倉庫6棟140坪。
神戸市に初めて電話が開通。申込総数142本。兼松商店にも電話がついた。
翁個人の自己出資金を当初の7千円から1万円に増額。
日清戦争始まる
1895明治28年51歳自宅を神戸市山本通り4丁目111番屋敷に定め、やがて これを『百松園(ひゃくしょうえん)』と名付く。
第二次渡濠直前に、生別死別の情をこめて兼松夫人に渡した5,000円を、兼松夫人からの出資として加え、資本金は15,000円となる。
神戸港築港運動を起こし、以後10年間、このために奔走。
6月に第5次渡濠。
日清戦争終わる
1896明治29年52歳 明治24年に出資金から借入金に書き換えた2万円を、
5月に利子をつけてすべて返済した。
一夕、その関係者を招き、感恩の席を設けた。
7月1日午後を臨時休業として、翁の52回誕生日を兼ね、店員一同を諏訪山の自邸に招いて、創業7周年を祝った。 一同に祝儀が頒けられた。
10月、兼松房治郎の努力により、日本郵船が
日濠航路を開始
羊毛輸入関税の撤廃を当局に建議、その実現をみる。
濠州から肉、骨粉、肥料の輸入開始。

1897明治30年53歳 積立金の繰り入れ、資産の再評価をして、資本金を10万円に増額した。
神戸在留の清国人との融和を計り、
日清貿易の発展に寄与す
金本位制の実施
シドニーに日本領事館開設。これまで、兼松のシドニー支店が日本領事館の代行をやっていた。
1898明治31年54歳第6次渡濠。
濠州からオレイン酸、凍肉の輸入開始。

肥料輸入関税の撤廃を建議し、
明治32年にその実現をみる。
葉煙草専売制実施
1899明治32年55歳 年商が100万円を越す。
濠州から砂糖、小麦粉の輸入開始。
11月1日の店内会議で、『従業員に持株分与の方針』を口頭で開示
また、「当店の最近の進歩は、他からの嫉視を招きやすいので、謙譲の態度を持ち、小成に甘んじて、油断することがあってはならない」と訓辞した。
年末の邦人業容:神戸本店:兼松店長以下27名、東京支店5名、シドニー支店は北村支店長以下4名、計36名。その他丁稚、小僧。
東京・大阪間の長距離電話開通
1900明治33年56歳3月、上海に支店を設置。続いて牛荘(遼寧省の港)にも支店を置く。

濠州から小麦、生牛の輸入開始。北清の豆油の濠州向け三国取引。
(濠州自体が小麦の輸出余力を持ったのは、1898年[明治31年]。日本製粉が日本最初の機械製粉工場を作ったのが明治30年。 館林製粉[日清製粉の前身]の設立は、明治33年)

4月、『貿易調査会』を設立。以後、貿易事務の発展に関し、時々、意見を当局に具申。
健康を害し、終年静養
東京株式市場大暴落。
各地に金融恐慌起きる

日清戦争による景気の反動で、日本資本主義の最初の本格的恐慌。

羊毛輸入の率先者 - 廃税運動

羊毛は、濠州の重要物産中の最たるものなり。
今や本邦への輸入多額にのぼれりといえども、 兼松商店開業の当時、すなわち明治二十二年[1889年]から二十三年にかけては、内地の毛織物工業なお幼稚なりき。
その工場のごときは、わずかに
  • 東京官立千住製絨所、
  • 王子東京製絨株式会社
  • 武蔵国大井村 後藤毛織製造所
  • 大阪伝法毛糸紡績会社
の四カ所に過ぎざるのみなりし。
その製造高のごときも、千住製絨所を除くの他は、すこぶる僅かなるものにて、いまだ 世上の注目を惹くにいたらざりき。
しこうして、兼松商店は明治二十三年[1890年]五月に、大阪伝法毛糸紡績会社の注文によりて、 五万九千十ポンド[掲者注:26.5トン]、価格二万円余を輸入したり。
これぞ兼松商店の羊毛輸入の嚆矢(こうし)*なりとす。
この試験的輸入は、別項記載のごとく、不幸、大阪伝法毛糸紡績会社の破綻のため失敗に帰したり。
翁はさらに失望するなく、羊毛の輸入について種々苦心するところありたる。
一方、わが国においても、生計の程度の進歩にともない、毛織工業の発展を促せし。
しこうして、その原料たる羊毛の輸入は漸次増加の機運に向えり。
しかるに、わが国においては、輸入羊毛に対し百分の五の関税を賦課せるゆえ、 いきおい、比較的高価の原料を使用せざるべからず。
その原料の高価は、ひいて、わが毛織工業の発達を阻害することすくなからざりし。
翁は、羊毛の輸入税存置は、たんに、羊毛取り扱い業者および毛織工業者の損失なるのみならず、実に国家の不利なりと説きたり。
みずから率先して他の同業者を糾合し、 明治二十九年[1896年]第九回帝国議会に羊毛免税の建議案および請願書を提出せり。
もって必成の運動をなしたる結果、ついに貴族院衆議院両院を通過し、明治三十年[1897年]四月一日より免税の勅令公布を見るに得たり。
はたせるかな、以後、毛織工業の発達進歩の顕著なるものなり。
一ヶ年における羊毛の輸入高、実に、五百万円を算し、濠州よりの輸入総額の大半を占むるの盛況を呈するにいたりぬ。
武蔵国大井村は、現在の品川区大井町

嚆矢(こうし)なりとす。
=嚆矢はカブラ矢。
カブラ矢を飛ばすと音が鳴る。
鎌倉時代までは、カブラ矢を射って、戦いを始めることを敵に伝えた。
また、濠州シドニー市において、発行する新聞雑誌においても、 翁が羊毛貿易の開祖者たるのみならず、日濠貿易の発展に関し、多大の功績あることを記述する極めてつまびらかなり。
吾人(あじん)*が、日濠貿易に対する翁の功績を、 呶々(どど)する*よりも、さらに有力なるを信ずるをもって、以下に、その 梗概(こうがい)を摘訳すべし。
吾人(あじん)
=私。
筆者(西村氏)のこと

呶々(どど)する
=くどくどしく言う

The Sydney Mail, 16th day of June, 1912

(掲者注:兼松房治郎逝去の7ヶ月前)
17世紀に、オーストラリアから日本へ羊毛を輸出した記録がある。
これはNew South Wales 州農事協会より、日本皇帝へ贈呈した品物だった。
19世紀にはいり、Mr. Fusajiro Kanematsu がオーストラリアと日本の間の羊毛貿易のフロンティアとなった。
Mr. Kanematsu は、26年前、1887年初めて、オーストラリアを訪れ、翌1888年まで滞在した。
この間、各州を旅行し、両国間の貿易の前途に確固たる信念を得て、帰国した。
1889年神戸に会社を設立した。
翌年2月 彼はMr. Toranosuke Kitamuraを伴って、再び訪れSydneyに支店を開設した。
(Mr. Kitamuraは、現在も引き続き、同支店の支店長である。)
1890年4月初めて、牛脂30樽、牛原皮400枚を送り、5月に洗上げ羊毛200俵を出荷した。
6月には、羊皮、羊革、牛革、馬具、およびバーク(掲者注:肥料の一種)を出荷した。
この200俵の羊毛は大阪の毛糸会社に納めたが、当時、日本工業の水準が低く、設備も経験も充分でなく、 毛糸会社は原料を有効に使えず、利益を得られなかった。
Mr. Kanematsuのこの試験輸出は失敗に終わったが、以後、日本工業の進歩とともに、毛織業も盛況になり、両国間貿易は、驚くような発展をした。
実際に、New South Wales 州は、日本に特派商務官を駐在させ、両国間貿易の発達をサポートしている。
その報告では、1910年のオーストラリアから日本への輸入額は、 £512,000以上に達した。
1903年の£56,000に較べれば、驚くべき進歩といわざるをえない。
日本の毛織メーカーは、最近、その規模を拡大して、毛織物の輸入を防ごうと努力している。
これはやがてオーストラリア羊毛の輸出を増加させる要因となるので、我々は、そろって歓迎するべき現象だ。
日本は資本および経験の欠乏に苦しみながら、現在まで急激に発展したことを考えれば、 今後の進歩発達は過去にくらべても、さらに驚くべきものとなるであろう。
両国貿易の年間総額が£5Millionとなることも遠くないであろう。

Sydney Wool & Stock Journal,
7th day of March, 1913

(掲者注:兼松房治郎逝去の1ヶ月後)
26年前の1887年、Mr. Fusajiro Kanematsu がオーストラリア/日本間貿易のフロンティアとして、オーストラリアを訪問した。
その3年後にSydneyに支店を開設した。
同社の健全なる発展とともに、わが国の羊毛の対日輸出は年を追って盛大になった。
Kanematsuが創業の頃は、オーストラリアの商業の中心として、Sydneyがようやく認められつつある時代だった。
Kanematsuが200俵の羊毛を1890年に日本へ輸出したのが、オーストラリアと日本との羊毛貿易の初めだった。
この200俵は、MurrumbidgerieのJames Rutherfordより、 の荷印で、Marketにだされた洗上げ羊毛だった。
Kanematsuが18Lb(パウンド)を£1の最高値で競り落とした。
しかし、Kanematsuの200俵の初輸出は失敗に 終わった。
Kanematsuは大阪毛糸紡績会社(日本フランネル株式会社の前身)に納めたが、当該羊毛の品質が上等すぎたことと、 工場の設備が不充分だったため、大阪毛糸紡績会社は利益を挙げることができなかった。
その後、数年、引き続き、少数の輸出があったが、多くは低級品のみだった。
日本毛織工業の技術水準の発達とともに、ようやく優良品の輸出が増加した。
その間、恐慌などの一時的な取引停滞があったが、年をおって発達し、ついに現在の盛大を見ることとなった。
本紙の統計によると、Kanematsuの初回輸出の年(1890年)から現在までの日本への輸出量推移は、下表の通り。
(掲者注:輸出量の数字表は、割愛する。替りに、その棒グラフを再掲する。)

以下は兼松60年史よりの抜粋

明治40年において兼松商店の取扱高は急増して7000俵を突破し、シドニー競売場における 兼松商店の席次順位も20位以内に進み、まず幕内にはいった観を呈した。 日本の羊毛総輸入高に対する兼松の比率は下記の通り。
羊毛年度総輸入高に対する
兼松の比率
明治42-43年58.0%
43-44年65.5%
44-45年63.9%
日本の総買付高と、実質唯一の羊毛直輸入商たる兼松商店の取扱高との間に相当の開きがあったのは、 当時原毛の大手消費筋たる官需(軍服、軍毛布など)の注文で外商を通じていたものが、尚、非常に 多かったことを物語っている。
(掲者注:日本軍は羊毛の輸入商として外国商社を使っていたことを示している)
尚、明治38年に高島屋飯田(現在の丸紅)が、明治40年に三井物産と大倉組が羊毛の現地買い付けに着手した。
(原毛には、土砂、脂、糞、わらなどが付着していて、実質の羊毛の歩留まりがどれ位になるかは 洗い上げしないとわからない)
兼松商店は、その買い付け羊毛に、荷口毎に洗上見積歩留を、明治40年から付すようにした。 (日本国内顧客の買い付けの指標とするため)
それに先立ち、シドニー支店内に洗い上げ試験装置を設けて、買付品の歩留試験を行って、見積の的確を期した。

(ウールトップの写真)
ウールトップは、羊毛糸を作るまでの中間製品

兼松商店は、明治43年に濠州製ウールトップの輸入を始めた。その取扱量は、明治45年に£210万。原毛輸入額に対比して7割見当であった。