本書は、昭和45年になって、妹尾一巳氏によって、第4版が出版された。
妹尾一巳氏は、独自の調査により、年表を追加している。 以下、兼松房治郎の第4次渡濠時の経営危機の後の事跡を、この年表から転記する。 また、明治33年に新卒入店した前田卯之助が、大正になって記した記録も、挿入した。
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羊毛輸入の率先者 - 廃税運動羊毛は、濠州の重要物産中の最たるものなり。今や本邦への輸入多額にのぼれりといえども、 兼松商店開業の当時、すなわち明治二十二年[1889年]から二十三年にかけては、内地の毛織物工業なお幼稚なりき。 その工場のごときは、わずかに
その製造高のごときも、千住製絨所を除くの他は、すこぶる僅かなるものにて、いまだ 世上の注目を惹くにいたらざりき。 しこうして、兼松商店は明治二十三年[1890年]五月に、大阪伝法毛糸紡績会社の注文によりて、 五万九千十ポンド[掲者注:26.5トン]、価格二万円余を輸入したり。 これぞ兼松商店の羊毛輸入の この試験的輸入は、別項記載のごとく、不幸、大阪伝法毛糸紡績会社の破綻のため失敗に帰したり。 翁はさらに失望するなく、羊毛の輸入について種々苦心するところありたる。 一方、わが国においても、生計の程度の進歩にともない、毛織工業の発展を促せし。 しこうして、その原料たる羊毛の輸入は漸次増加の機運に向えり。 しかるに、わが国においては、輸入羊毛に対し百分の五の関税を賦課せるゆえ、 いきおい、比較的高価の原料を使用せざるべからず。 その原料の高価は、ひいて、わが毛織工業の発達を阻害することすくなからざりし。 翁は、羊毛の輸入税存置は、たんに、羊毛取り扱い業者および毛織工業者の損失なるのみならず、実に国家の不利なりと説きたり。 みずから率先して他の同業者を糾合し、 明治二十九年[1896年]第九回帝国議会に羊毛免税の建議案および請願書を提出せり。 もって必成の運動をなしたる結果、ついに貴族院衆議院両院を通過し、明治三十年[1897年]四月一日より免税の勅令公布を見るに得たり。 はたせるかな、以後、毛織工業の発達進歩の顕著なるものなり。 一ヶ年における羊毛の輸入高、実に、五百万円を算し、濠州よりの輸入総額の大半を占むるの盛況を呈するにいたりぬ。 |
武蔵国大井村は、現在の品川区大井町
=嚆矢はカブラ矢。 カブラ矢を飛ばすと音が鳴る。 鎌倉時代までは、カブラ矢を射って、戦いを始めることを敵に伝えた。 |
また、濠州シドニー市において、発行する新聞雑誌においても、
翁が羊毛貿易の開祖者たるのみならず、日濠貿易の発展に関し、多大の功績あることを記述する極めてつまびらかなり。 |
=私。 筆者(西村氏)のこと =くどくどしく言う |