日濠間の定期航路開始

対外為替制度の不整のため、多大の不便を感じたる翁は、交通機関不備のためにも、すくなからざる不利をこうむれり。
当時、日濠間の交通状態は、イー・アンド・エー汽船会社およびチャイナ・ナヴィゲーション汽船株式会社が二ヶ月に一回、 ないしは、三ヶ月に二回、両国間を往復せるに過ぎず。
したがって、その運賃のごとく、すこぶる高率なり。
その割合は外国人と日本人との間に大いなる差異ありし。
仮に、その商品を廉価に仕込み得るとするも、運賃の一点において、外国人に対応あたわず。
我は常に劣者の地位に立たざるを得ざりき。
されば、翁はしばしば日本郵船会社に対して、濠州航路開始のことを交渉せしも、これまた急にその目的を達するあたわざりき。
しかも、以後、翁の切なる勧誘と、その貿易の旺盛におもむくにしたがい、日本郵船会社もようやくその必要を感じ来たり。
ついに日清戦役後、すなわち明治二十九年[1896年]にいたりて、横浜-アデレイド船を開始し、同年十月山城丸[2,527トン]をして、 初航の途に就航せしめたり。
もっとも、最初は山城丸型の汽船三隻を不定期に差し立つるに過ぎざりき。
しかど、明治三十二年[1899年]におよびて、これを定期航に改め、かつ汽船も春日丸、二見丸、 八幡丸のごとき、五千トンないし七千トン級の新汽船をもってこれにあて、しかも毎四週一回、横浜-メルボルン間を往復せしむることとなり。
そのほか外国船においてもイー・アンド・エー汽船会社およびロイド汽船のごとき、 会社船の月に数回往復するあるをもって、今は昔日のごとき、不便と不利とを感ぜざるにいたれり。
新たに、ある国に対して、貿易を開始するの一事、既に容易ならざるに、その貿易機関の諸設備についても、 みずから、尽瘁(じんすい)するべき、 その労や深く、察すべきなり。

対外為替制度の充実

翁が日濠貿易開始の際、種々の困難に遭遇したること前に記するがごとき。
しかれども 当時、日濠貿易に対する為替機関の欠如せること、おそらく、その最たるものなるべし。
当時、翁の調査せるところは、下記のごとし。
例えば、外国商人は濠州に商品を輸送するにあたり、荷為替のごとき、ロンドン支払いのもの、 すなわち、クリーン・ビルの方法を使う。
日本商人は、この方法を使う便なきをもって、手数料の高い濠州支払いの手形を売らざるべからず。
輸出為替は到着地において、荷受け者がその手形を引き受けと同時に、銀行をして荷物引換証を渡さしむるに非ざれば、 せっかく、輸入した荷物もいかんともするあたわず。
かくのごとき手続きをなさんとせば、わが国においては、まず、ある銀行に手形と同額の担保を提供する。
その補償を受け、しかる後に、これを外国銀行に売却するの 他なかりし。
これをもって、外人に比して、幾ばくか余分の費用を要せし。
また濠州より商品を日本へ輸入する場合においても、外国人は一万円の商品を輸入せんとすれば、 為替の担保二千円を要するのみなれば、商品は日本直後といえども元値はやはり一万円なり。
しかし、当時濠州にはわが国唯一の外国為替銀行である横浜正金銀行の支店も代理店もなかりし。
また、外国銀行は日本商人との直接の為替取組を好まざるをもってした。



クリーン・ビル(Clean Bill)
=船積み書類の添付されていない為替手形
日本人にして商品を輸入せんとせば、勢い、内地の銀行の保証を得て、しこうして後、 香港上海銀行チャーター銀行より信用状の交付を受けざるべからず。
ゆえに一万円の商品を輸入するには、その商品の元値と同額の担保を要する。
それのみならず、保証銀行への手数料と外国銀行への信用状発行手数料とを支払わざるべからざりし。
したがって、商品の日本へ着するときは、その元値は一万百円となるを常としたり。
為替制度が完備しているか否かで、かかる大いなる差異を生ず。
日本商人にしていかに奮闘努力するも、 外人に対抗するの不可能なること、識者を()ちて、後になって、 知るべきにあらず。
当時、翁をして、
「予が、友人らの諫止に従わず、しいてこの難局に当たる、もとより心中深く期するところのものあればなり。
しかも身に有力なる後援あるにあらじ。
加うるに対外貿易制度の ひとつの為替にしてかくのごとしなり。
香港上海銀行
=イギリスのHSBC[旧名HongKong Shanghai Banking Corpoation

チャーター銀行 =現在のStandard Chartered Bank
その状、あたかも戦場において、単身刀を (ふる)って敵のクルップ砲に向うに似たり。
その勝敗の数、知るべきのみ」
との嘆声を発せしめたるは、まことにゆえあるなり。
かくのごとく、為替制度の不備なるため、輸出入ともに日本商人のこうむる不利不益、 大なるをもって、翁はしばしば横浜正金銀行に対して、信用状発行のことを要請したり。
何分(なにぶん)、濠州に同行支店の設けなく、その他、 日濠貿易の状態不明なるなど、種々の事情ありたるをもって、容易にその承諾を得るあたわず。
明治二十六年[1893年]、翁が上京して、当時の頭取たりし、園田孝吉氏を(おとな)い、 みずから日濠貿易の現状と為替制度完備の急務なるを熱心に詳述するに及んで、園田氏の意、おおいに動き、 初めて本件に関する調査に着手せんことを言明するにいたれ り。
されど、本件は本店において断行すべき性質のものにあらず、一旦、本店よりロンドン支店へ通告し、 ロンドンのパートナー銀行よりさらにそのシドニーの関係先へ照会したり。
横浜正金銀行ロンドン支店は、シドニーより何らかの回答を待ち、しかる後、 本店へその可否を報告し来たるの順序にして、この時代においては、その書信の往復のみに ても、約八ヶ月を要せし。
その横浜正金銀行より具体的な回答に接するまでには、多くの月日を費やしたりき。
しこうして、その回答の内容にいたりては、不幸、翁の要望を満たすあたわざりし。
といえども、翁は、
「これ、結局、我が店の信用程度のしからしむる所にして、今日において、これ以上有 利なる条件を要望するは、その要望するものの勝手なり。
この上有利なる条件を得んと せば、退いて、我が店の信用の増進を計るにしかず」となし。
みずから戒めて、横浜正金銀行当局の処置に対して、いささかも非難の言を加うることなく、 ひたすら、信用の向上と、業務の発展につとめて、他をかえりみざりしがごとき、その人格のいかに高きかを推すべし。
とは、当時、翁とその行動を共にせし、某氏の語るところなり。
今や、日本の各銀行は、彼の地との取引を続々開始し、その他外国銀行においても進んで日本商人と取引をなすこととなり。
その為替取り組みの上において、些の困難を感ぜざるにいたりし。
時勢の進歩あずかりて力あるべしといえども、また、翁が二十余年間、幾多の艱難と闘いて、 日濠貿易の発展に尽瘁せし賜物(たまもの)たらずんばあらず。
世の日濠貿易に従事するもの、その功績を忘却して可ならんや。
クルップ砲は、ドイツのクルップ社製の大砲。
鋼鉄材質が(まさ)っていた。
当時の日本海軍はクルップ砲を採用した

横浜正金銀行は、国策銀行で、当時、日本で唯一の外国為替銀行

明治26年(1893年)に、房治郎は横浜正金銀行の頭取に面会したと、本書には記載してあるが、 これは、明治25年(1892年)が、正しいと思われる。明治26年(1893年)は、第4次渡濠中で、前年から翌年までオーストラリアに いた。濠州の大恐慌で、兼松商店の危機状態だった。






横浜正金銀行が、シドニー支店を開設したのは、房治郎の死んだ翌々年の大正4年(1915年)。

海外為替手形取引所の設置計画

わが国がいまだ金貨本位を採用せず、銀貨本位をもって制度とせる時代においては、 通商貿易に係わる取引上、為替相場の異同より生ずる、危険損失の甚大なりしこと、も とよりその所にして、あえて怪しむに足らず。
日濠貿易開始以来、この苦しき経験をなめたる翁は、これらの危険損失を避け、比較 的安全の道によりて、通商貿易を隆盛ならしむるは、為替手形取引所のごとき機関を 設置するにありとし、政府当局者に対して、その設置の必要を具申するところあり。
しかれども、本件は、ついに政府の採用するところとならず、かつ、その後、まもなく、 明治三十五年[1902年]にいたりて、金貨本位制度を採用せるをもって、翁の運動は徒 労に属したり。
しかれども、この一事をもって、常に翁が心を対外貿易の発展に傾倒す るのみならず、何事につきても、特別の意見を抱持(ほうぢ)しおりたる例証として見るべし。