山川勇木氏の追憶の記

(山川勇木氏は、明治34年の不況のとき、横浜正金銀行の神戸支店長だった人で、
兼松商店に 援助の手をさしのべた人である)


兼松翁、没して既に一周年、うたた追悼に堪えざるものあり。
予の初めて翁を知れるは、 明治十一、二年頃、翁が大阪米商会所肝煎(きもいり)として従事せられたる時にして、その後、 翁は日濠貿易の前途はなはだ有望にして、これを開拓することが、国家の急務たるこ とを認め、故西村虎四郎などの後援を得て、率先自らこれに従事せり。

[途中、割愛]

予は、当時、横浜正金銀行の神戸支店長として、取引上、翁に接触する機会多く、翁 のこの性行には、満腔(まんこう)の尊敬を払いたる一人なりき。
しかるに明治三十二、三年頃、本邦の商況不振を極めたる影響を(こうむ)り、翁の業務は 非常の難境に陥りしかば、ついに余に対して救済を求めらるるにいたりし。
その言動、今なお、予の耳目に彷彿(ほうふつ)*として忘るることあたわず。
翁はその財産状態を 最も詳密に、最も明白に記述し、身の回りの所持品にいたるまで挙げて漏らさず、これを示 して曰く、
予の財産はかくのごとき状態にして、不幸、救済を受くることあたわずんば、平穏鎖店 するの他なし。
たとえ、平穏鎖店するとも、累を他に及ぼさずして、尚あるいは一家の 糊口を支持するに足らん*と思わる。
予一個として事業の蹉跌(さてつ)は、予の不敏(ふびん)の致す所、 亳も恨むに足らざれり。
しかれども、予の天賦として、いささか邦家のため、苦心経営十 数年を重ね、梢々その緒につきたる日濠貿易の前途に想到すれば、実に惆悵(ちゅうちょう)の念 * に堪えざるものあり。
ただこの一念に駆られ、あくまで今日の苦境に踏み止りて、なおも奮闘を継続せんとする ものなり。
ゆえに予はあえて兼松一家の救済を臨むにあらずして、日濠貿易のため、救済を熱望 するものなり」と


耳目に彷彿(ほうふつ)
=聞いたこと、見たことをありありと思い浮かぶ。


平穏鎖店(へいおんさてん)
債権者の合意を得て、廃業。

平穏鎖店するとも、 累を他に及ぼさずして、尚あるいは一家の 糊口を支持する
=廃業しても、債権者に迷惑をかけず、ひょっとして自らもなんとか食べていけるかもしれない。

惆悵(ちゅうちょう)の念
=うらみ、なげくこと。




言々句々、いかにも男児鉄石の心腸を発露せる。
その意気は、すくなからず、予を感 動せしめ、翁は全く予の理想に適する実業家なりしことを思いき。
ついに同氏の営業 状態および財産の詳細にわたりて、精密なる調査をなし、必ず救済し得べきことを認め たり。
もって、当時の正金銀行重役の承認を得、これが救済に着手したりしが、当時予 の希望として、下の二項を翁に提言せしに、
  • 翁の営業に大改革を加うること。
    その改革たるや消極的方針をもって一貫し、おおい に経費の節減を講じ、小売商業を廃し、意を注文取引に注ぐこと。
  • 翁はこれまで種々の社会事業に奔走斡旋(あっせん)せられしも、今後営業状態充分の発展を見 るまでは、断然公事との関係を絶ち、全力を自個事業の経営に注ぎ、徐々にその発展 を図ること
全部、翁の賛同を得、翁は誓いて、この希望に背かずと約せられたりしが、星変り(とき)移 り、翁の業務は秩序的の改良発展をなし、昔日以上の繁栄を見るに到りしかば、外部 より再び翁の公事に奔走せられんことを勧誘するもの(きびす)を接するにいたり、ついには 衆議院議員候補に立たれんことを神戸有力者の強請するあり。
ことに、実業家の代表者として翁を衆議院議員に選出したしとの地方官憲の希望もあり、 翁は実際、辞するあたわざる立場にいたりしも、なお、断固としてこれを謝絶して曰く、
「予は営業状態が充分回復を見るまでは手を外部の公事に染めず、専心店務に従事 すべしと、横浜正金の山川に誓いたることあり。
ゆえに今後なお数年間は、断じて諸君 の希望に応ずるあたわず。
数年後といえども、山川の許諾を得ずして公人として起つこ とあたわず」と。
これを漏聞(ろうぶん)*せし予は、ますます翁の性行の率直にして、言諾を重んぜらるる高徳心に 敬服せざるを得ざりき。
不幸、晩年健康を害して、薬餌(やくじ)に親しみ、ついに公人として活 動せらるる翁を見ることあたわざりしは、すこぶる遺憾(いかん)とする所なれども、その病没に先 き立ちて、業務、非常の発展を遂げ、基礎の牢固たるを見て、安心瞑目(めいもく)せられたるは、 予ら、翁の友人の等しく自ら慰むるところなりとす。
漏聞(ろうぶん)
= 漏れ、聞くこと。他人から聞く。




本書は、大正3年9月に初版が出た。多くの人が、追悼の記を送ってきた。
そこで同年12月に再版を出すときに、それらの追悼の記を巻末に載せた。
上記の山川勇木氏の追憶の記は、その内の1つ。
巻末に印刷された文章の寄稿者は合計28名。
侯爵、兵庫県知事、阪神実業人など著名人などの名前が多くみられる。
また神戸居留地に長く滞在している一人の清国商人からも寄せられている。
商売取引は、兼松とはなかったが、良い交友関係だったと記されている。
(大正元年に清国は倒れ、中華民国が成立していた)